翻刻
此|奥(おく)に用事有(よふじある)といふにもあらずいさ是(これ)より引(ひき)かへし
出はやといゝしに友丹生(ともたんせい)つら〳〵|思案(しあん)して最早外(もはやそと)
ヶ浜(はま)の限(かぎ)りも十|里(り)に足(た)らず憂目(ういめ)を見(み)るも此上は
有(ある)べからず無事(ぶじ)に古郷(こけう)に帰(かへ)りて後旅中(のちりよちう)の事とも
物語(ものかた)らんに外(そと)ヶ浜今少(はまいますこ)しにして見残(みのこ)したりといわんは
其時(そのとき)いか斗残念(はかりざんねん)ならん歩行給(あるきたま)へつとめたまへといふにそ予も
実(げ)に左(さ)あらんと思(おも)ひて終(つい)に東北(とうぼく)の限(かぎ)りを尽(つく)せり
扨夜(さてよ)ごと泊(とま)り〳〵にて卯年の事共|哀(あわれ)にも又おそろしき
事数〻(ことかづ〳〵)の中に女鹿沢(めかざわ)といふ所に宿(しゆく)しける時宿(ときやど)の
主(ある)し語(かた)りけるは卯年|飢饉(きゝん)に及ひ五|穀(こく)すてに尽(つき)て
千金にても壱合(いちごう)の米(こめ)を得(へ)る事あたわす草(くさ)木の
根葉(ねは)その外藁籾或(ほかわらもみあるい)は犬猫牛馬鼠(いぬねこぎうばねつみ)に至(いた)るまて
力(ちから)の及(およ)ふ程(ほど)は取尽(とりつく)し喰(く)ひ尽(つく)して後(のち)には道路(どうろ)に行倒(ゆきだおれ)
満〻(みち〳〵)たる死人(しにん)の肉(にく)を切(きり)とり喰(く)ふ事に成けり久敷渇(しさしくかつ)
して自然(しぜん)に死(し)したる人の肉(にく)は腐て其味(そのあじは)ひ甚(はなはた)
あしく活(いき)たる人を殺(ころ)し喰(く)ふものも多(おゝ)かりし也