翻刻
勤罷有候処父武兵衛方エ引取以後狛伊勢与力相勤候処
貞享三年浪人仕候其子西脇甚五大夫重武浪人ニテ江戸
表ニ罷有候処 吉品公御代被召出候
吉品公御代宝永四丁亥年跡目被下
養子
当西脇文治重正《割書:生国越前|実父剱持久右衛門正朋》
△ 来栖
吉品公御代元禄四辛未年被召出
〇来栖半之丞定晟《割書:本國不知 生国越前|姓不知》
父来栖半之丞全英儀鈴木多宮方ニ相勤申候正保二年八
月朔日 忠昌公御逝去ニ付同月十九日多宮儀殉死仕候
其節半之丞全英儀モ亦多宮為ニ殉死可仕之段相望候処
多宮末期ニ及弟小源太儀跡式相続之願申上候未幼少之
儀ニ候間全英儀殉死之所存相止小源太成長之後見仕候
様ニト多宮達而相頼申ニ付不遂所存候処慶安元戊子年
小源太病死仕ニ付前念ヲ継而多宮命日八月十九日追腹
仕候是等之儀被及 聞食之由ニテ定晟儀被召出候由
現代語訳
勤めていたところ、父武兵衛の方へ引き取られた後、狛伊勢の与力として勤めていたが
貞享三年(1686年)に浪人となった。その子西脇甚五大夫重武は浪人として江戸
表にいたところ、吉品公の御代に召し出された。
吉品公の御代、宝永四丁亥年(1707年)に跡目を下された
養子
当西脇文治重正(生国越前、実父剱持久右衛門正朋)
△ 来栖
吉品公の御代、元禄四辛未年(1691年)に召し出された
〇来栖半之丞定晟(本国不明、生国越前、姓不明)
父来栖半之丞全英は鈴木多宮の方に仕えていた。正保二年(1645年)八
月朔日に忠昌公が逝去されたため、同月十九日に多宮が殉死した。
その節、半之丞全英もまた多宮のために殉死したいと望んだが、
多宮が臨終に際し、弟小源太の跡式相続を願い出て、まだ幼少の
ことなので、全英は殉死の所存を止めて小源太成長の後見をするよう
にと多宮が切に頼んだため、所存を遂げなかった。ところが慶安元戊子年(1648年)に
小源太が病死したため、前の念いを継いで多宮の命日八月十九日に追腹
した。これらのことが聞こし召されたということで、定晟が召し出された由。