翻刻
うち怪(けし)からぬ音して人の泣声(なきごえ)あるひは大ひに叫(さけぶ)
こゑなど聞(きこ)へければ何事やらんと思ひつゝ 門(かど)に出て
川端近(かはばたちか)く至(いた)り見れば恐るべし大津波(おほつなみ)突来(つききた)り此
辺(へん)内川(うちかは)と雖(いへ)とも忽(たちま)ち白海(しらうみ)のごとくなり逆巻浪(さかまくなみ)に
大舩小舟(たいせんこふね)重(かさな)り合(あふ)て押寄(おしよせ)悉(こと〴〵)く打砕(うちくだ)け舩に居る
人々 残(のこ)りなく溺(をぼ)れ泣叫(なきさけ)ぶ声(こえ)身(み)の毛(け)も弥立(よだつ)て哀(あはれ)
とも恐ろしくともいはん方(かた)なく我(わが)つなぎ置(おき)し舩も
何(いつ)かたへ流(なが)れ行(ゆき)しや行方(ゆきがた)を知(し)らす此体(このてい)を見て恐(をそ)る
〳〵我家へ帰(かへ)り家内五人共 恙(つゝが)なかりしなり此人 平(つ)
常(ね)に神仏を尊(たつと)み仁慈(じんじ)の心 深(ふか)く冥加(みやうが)をおそれ
奢(おご)りを慎(つゝ)しみしに急難(きうなん)の場(ば)に望(のぞ)みても神仏を
疎(おろそか)にせず大神宮の御 祓(はらひ)を取忘(とりわす)れしとて家に帰
るといふは全(まつた)く神明此人を加護(かご)ありて免(まぬか)れしめ
給ふるるへし実(じつ)に我神国(わがみくに)に生(うま)れては斯有(かくあり)たきもの也