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するにて。これして。ことなり。其上に
九四
近江房守兵衛手代等助来る、これは絶粗逆なる、かたはら活時変員ともて薬とす。
本店は江州日野にて水口代の領なり、店も大きやかなる家に上藏巨大なるあり、八
五十人ばかりもつかりもつかふ。
海久井祐斎祖再来る、これは斉藤武右衛門が娘に於宅といふ医者の表なりけるが、
荅乞死して子前齊に追ゆづかりめがいたもしをよろこびて来りけるなり。
前席藤兵衛妻来る。それは兵新村親の代につかへたるものにて世話して長持し
で持せ養子つかはし候ものなれば子いたりしとて來。
十四日購
遊羽織者かへて甚兵衛喜太郎ともにこゝろやすさき人々務ふ、支那瀬筋山漲縮寺組
雪際といふ今般村といふにあり其三実、こは線動神社あるもてかくは呼ぶなり、
むかしは物新ありしかばいと安き寺なるを、たゞ寺と社の降現のみにて今おとる
へたりとぞ。此寺岩本氏の墓あれば拝す。巻たゞ二基茂兵衛父なり。
独活良調居士
これは茂兵
一術の親也
清蓮智法童女に水焼の辛子なり
同精蓮智法童女
これ先の妾子な
正助の女なり
大地震動して。ことなりて。ことし
これは茂兵衛の女にて躍とよびし即
衛五莊徳本童女
薬徳本童女子の妹なりわづか二歳の時病死す
子の姪なりわづか二歳の時病死す
一日の名:人々の名前贈りものしるしるしるす。
夜人々来る。
十五日晴
舞踊人々を訪ふ、井上甚左衛門湯湧ひしに、十山斉禅を喜ぶ。これは小老山といふ
以上に此地の商人参拝流盛なるもの時件の詩術なり。丼に此王上連左衛門顔咎
公の集字して書せしなり。淡斎が伝は後に記す。
下謀行府を以て猶生町より西なる山に登る。町をはなるれば
は遅気或内の御料にて陽成が早救緩移事等といふ。緩日本記には元歷四年五月
廿五日、戌寅浮従五位上刻発神米種神準並五位下通十二等よし見えたれ庶医師の
事はまたその後なるや。神宮小路大宮吾再御朱印なし。この思はや荒の村といふな
り不希ヶ村おと称とぞ。此やしゐにつきて行けば大きやかなる由も小さき時も
たがひにころば浅さるきまにてげしきいとよし、前に前に若山あり茲に親嘗安世し
然る寺あれば山の嶽帝山とよぶしや、名を光明寺と称し木村茶蔵派建る所といふ。
九五
発災挙山全集
からざるにて。それありけるにてることな
いへる事てることなりて。ことにして。