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また大佛殿の再建なし仏在て殿なき事凡百三十余年を経たる時に東大寺
龍松院公慶上人再興の志を発し勅命を蒙り貴賤を勧て大佛殿を再
備むるは広間を以ければ其後の類は即勅命を蒙り貴賤を勧めく大佛殿を再
興す今の佛殿これ也 公慶上人大佛殿再建之記別記にしるす
大仏の脇士左観世音
奈良法眼扶慶京師法橋定覚两作
宇都宮左衛門督朝綱寄進
右虚空蔵
奈良
御法印
康慶同法眼雲慶两作穀倉院は
別当親能寄進
増長天
奈良法眼杖慶作
畠山重忠寄進
廣目天
康慶作梶原
景時寄進
多門天
定覚作武田
信吉寄進
持國天
雲慶作小笠原長清寄進右脇士二像四天王
は治承の建立にして永禄にして滅ぶ今堂内
安置の像は
新作也
鯖公■杖の跡
東の回廊のまへにあり伽藍建立のはじめ鯖売翁あり
聖武帝かれをめして大会の講師とせさせたまふに杖を
もつて龍八十を■ふに其鯖変じて八十華嚴経となり其杖地中に立
たちまち枝葉を生し白槇木となる治承の回禄に滅す今其趾あり
鐘樓
天平四年にはじめて鎮る高さ一丈三尺六寸口ノ經九尺三分
厚さ八寸用■五万二千六百八十斤白錫二千二百斤朝野群蔵
に見へたり
寛文記曰奈良の諺に曰勢は東大寺形は平等院
聲は園城寺といふ
蘭奢待
東大寺勅封の寶物也信長記云天正元年三月廿二日信長公蘭奢待
を御望ありたき旨奏聞せられければ日野大納言飛鳥井大納言勅
使いとして南都へ■参られける信長公同廿七日奈良に御着あつて多門にまし〳〵
翌日蘭著待を■法にまかせて一寸八分切らせられ三分二にして其一分をめし
置れて残る所は国〳〵の大小名外様の侍に至るまて
配分して下し賜りける
俊乗堂
俊乗坊重源上人姓は紀氏瀧口左馬允季重の三男刑部左衛門
家して仁安二年宋國にいた天台山に有りて阿羅漢■
明別にして舎利の瑞光を見三年を経て歸朝し黑谷源空上人の弟子と
なり其後東大寺再建の勧進したまふなり《割書:釋出|》重源上人の杖木履笠な
と堂内にあり堂■に
名木の糸桜あり
大鐵釜
俊乗堂の西にあり傳曰俊乗上人大佛殿
再建の時■■の祷釜なりといふ
念佛堂
本尊地蔵菩薩胎内に長一尺の地蔵尊ましますこれは摂津国糸女
いふ遊女の持佛なりしが俊乗上人に奉りし也夜温也蔵どもいふ
良辨杉は良弁僧正幼童の時住給へる跡也■は櫟の木にてありしが
鳥羽院大永二年におのづから倒る其跡に杦生たちけるより俗に良弁
杉といふ《割書:御巡礼記|》■良弁僧正は近江国志賀郡の人也其母観音に祈りて
男子を産る二歳の時母■を取に木陰に子をぞすへ置けるが忽大鷲
来たりて其子を掴み飛去るあわやと走り行けども翅より軽し見る
がうちに雲に入にけり母深く悲しめども其甲斐もなかりけり其頃
南都に義渕僧正といふあり春日明神に詣たまふに鷲ひとりの
児を弄するに人音にや驚けん児を野に残して逃■りき僧一怪
ながら児を拾ひとりて育られしに五才といふには経論を見するに