翻刻
箱根山に万巻上人とて智行(ちきやう)たけくいみしき聖(ひぢ)りまします
かつて方広経(ほうくわうきやう)一万|巻(くわん)読誦(とくじゆ)満足(まんぞく)し給ひぬれば時の人万巻
上人とは号(かう)しけり生得(しやうどく)慈悲(じひ)深(ふか)くおはして偏(ひと)へに済度利生(さいとりしやう)を
のみ致(むね)とし給ひける齢(よはひ)八旬に及ばれける此(この)常州(ひたち)鹿嶋(かしま)太神に
詣(けい)し衆生(しゆじゆう)済度(さいど)の方便(はうべん)を懇(ねんころ)に祈請(きしやう)し給ふに太神巫(かんなき)に託(たく)して
告(つげ)給わく上人慈済(じさい)の心(こころ)切(せつ)なる事神慮(しんりよ)に叶(かな)ひぬこゝに豆州
かも郡の海中に出湯有り|潮汐(うしほ)|常(つね)に沸湯(わきかへるゆ)となるゆへに魚(うを)
介(かい)の類ひ爛(たゞ)れ死する事数をしらずしかるに此出湯を以て人間
の浴(ゆあみ)する時は衆病悉除(しゆびやうしつじよ)の|霊湯(れいとう)也上|加持(かご)して是|磯(いそ)山の
上に遷(うつ)し給はゞ若干のいろくずの命を救(すく)ふのみならず普(あまね)く
衆生の病患(びやうげん)を愈(いや)すならんと託(たく)し給ひければ上人心肝に銘(めい)し
いそぎ此地に来り見給ふに神託(しんたく)に露(つゆ)もたがわす海上に湯煙(ゆけふり)
おこり潮波(うしほ)大|熱湯(ねつとう)と沸かへりて爛(たゝ)れ死(し)たる魚介(うをかい)は数かきり
なく磯(いそ)にも沖にもみち〳〵たり上人|深(ふか)くあいれんしたゞずみ
給ふにいつくともなく老翁(おきな)出て来(き)て上人をはいしていふ
やうわれは此所の者にて侍る願くは上人此|温泉(をんせん)を山上へ祈(いのり)
移(うつ)させ給はゞ救世(よをすくふ)の利益(りやく)是に過くべからず我(われ)も力をそへ
奉んと申てかきけして見えずとなり上人則(すなは)ち海辺に