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不快罷在難致出勤趣ニ付其節御自分儀
寺社町奉行代り可被相勤候
右被仰付候処三郎兵衛月番中ニ付即日ゟ月番御用引 御着城日御用相済候儀月番相勤之
一享和元酉三月大御番組堀勘左衛門儀江戸詰罷越候ニ付霊岸嶋御屋敷御門預り被仰付堀平大夫儀
同断御道中御水主頭仮被仰付候ニ付右之趣御水主頭へ為心得申達且又勘左衛門へも御門預り御水主組
之者支配之趣為心得申達之
一御先物頭道中仮目付被仰付候ニ付前日御用番ゟ評定所へ御呼出御切紙被差越候右ニ付
御目付ゟハ為心得上下持参評定所へ罷出候趣申達候事 誓紙有之故
一正徳二辰五月七日町奉行海福伊兵衛義御奉行飯沼官兵衛鈴木彦太夫両人共ニ新役之事ニ候間伊兵衛以前之御役ニ候条折々勘定所へ罷出御用可申談旨酒井典膳申渡之
一正徳五未九月廿九日御堀うまり候所を土揚候儀ニ付中根幾右衛門年寄存候様ニ無之ニ付上水奉行織田藤左衛門へ兼勤
被仰付候様相極り十月三日藤左衛門へ右加役被仰付幾右衛門へも左様相心得申談相勤候様被仰付候
一享保三戌五月十日御鳥見頭鈴木甚五大夫加役ニ御鵜方見習候様ニ東郷門大夫《割書:御鵜
方也》申合可相勤旨被仰付候由荻野孫右衛門申渡候
一同年五月十一日於御座所岡部左膳林八右衛門差加御膳番高坂武右衛門加藤十右衛門海福忠左衛門土屋助七へ左之通被仰渡
河崎小十郎儀常々御役儀麁末之処今度不念有之御役御取上被成候惣而被召上物之儀ハ御大切至極之儀ニ候間猶以念を入相
勤候様ニ 御意之旨御家老中被申渡候
但小十郎御膳番相勤候処去三日中書様江戸ゟ御帰館掛御座所へ御立寄御料理被進候節 殿様御椀へ御食入不申差上即日遠慮
被仰付御椀立作兵衛与申者も遠慮仕候然処今日小十郎御役御取上大御番入右跡役土屋助七へ被仰付候事
一同年九月十一日去八日御泉水奉行八隅豊右衛門病死跡仮役御台所目付中野忠兵衛へ明十二日申付候旨御奉行共申聞候
一郡奉行故障之節ハ仮役御勘定拝借奉行へ被仰付御発駕御帰城等ニも右仮役ニ而罷出候事
一明和五子年御帰国之節郡奉行仮役ニ而拝借奉行梯左忠太蜷川林左衛門今庄并水落御本陣へ罷出候事
一元禄十二卯六月廿九日郡奉行仙石喜左衛門木滑吉右衛門両人共御領分致出役被仰付候ニ付右跡御用御勘定奉行山中久兵衛日比野七郎右衛門へ被仰付候
一御水主頭故障之節ハ仮役御杉形奉行へ被仰付候例
正徳二辰三月廿七日御水主頭有賀清右衛門病死ニ付組之者并同役堀江源左衛門江戸御用中ハ組之者共
御杉形頭大宮彦右衛門へ仮支配被仰付候旨留有之
宝暦九卯七月朔日御水主頭江戸交代ニ付勤筋其外仮支配御杉形奉行
江口九之丞山口次郎大夫へ被仰付候ニ付御目付ゟ両人へ申達之
一天明四辰九月四日武芸御覧之節御使番御目付介被仰付候旨被仰出候事
一同日御奉行廻在中ハ御用取次指支候時ハ郡奉行取次可相達旨◦勘定奉行取扱候吟味之儀ハ尤郡奉行へ難申談御用ハ御目付取次可差出事 御家老中被申聞候事
一同八申五月三日郡奉行今庄水落へ罷出候跡差掛り候御用ハ御目付月番奈良太郎右衛門取扱候様御家老中被申聞候事
一享保五子五月十八日二之丸へ御祈祷之礼為勤高橋吉兵衛罷出儀ニ候得共忌中故御徒目付御用番田中利左衛門差出候
一享保六丑三月廿一日矢野右衛門作御目付小川与右衛門跡被仰付御徒頭御用も追而跡役被仰付候迄相勤可申旨被仰出候由
御家老中被申聞候
一同七寅二月十三日御側物頭御座所御用土屋十郎右衛門昇安院様御霊屋御普請奉行被仰付ニ付右代御座所御用同役中村太郎左衛門へ被仰付右代り御泉水屋敷御用番外御近習ニ而下山清左衛門へ被仰付候同年六月廿日下山清左衛門陽寿院様へ被為付候ニ付右代り
御徒頭富田平蔵へ被仰付 但跡々御側物頭へ御預候事候へ共此節御用懸りニ而手明無之又御近習之者ニ而無之候而も如何敷大事彼是候段早速被仰付候同年八月八日十郎右衛門御用も相済候ニ付十郎右衛門并太郎左衛門最前之通可相勤平蔵ハ不及相勤旨御目付月番を以申聞之旨御用部屋留ニ在之
一同八卯二月廿一日二之丸御花壇御用ニ付同所木戸明可申処高橋吉兵衛痛之段相達候ニ付御徒目付竹内平右衛門へ鎰明おろし申付候
一元禄十二卯六月廿九日郡奉行両人共在辺御用被仰付候ニ付右跡御用山中久兵衛日比野七郎左衛門両人ニ而可相勤旨被仰付候
一同十六未正月廿九日御花畠役絵奉行原田四郎右衛門相果二之丸御用指支候間仮役御徒目付高橋吉兵衛相勤候様可申渡旨御目付へ被申渡候
一宝永元申四月五日御普請奉行上月八郎左衛門今村段右衛門両人共江戸表御普請御用ニ付被召寄候ニ付右跡仮役御作事奉行本多十郎兵衛
相勤候様御家老中被申渡候 一丁後可見合一延享元子年ニも日光御手伝其外故障有之節御ふしん奉行仮役御作事奉行藤田惣七へ被仰付置候処十月十二日仮役御免
一享保十一午三月八日二之丸御花壇預り竹内平右衛門病死同十一日御徒目付内田小左衛門へ右跡仮役可申渡段御家老中被申聞十郎右衛門ゟ申渡之
一同年同月十六日津田藤蔵儀御鳥見頭富田平蔵跡御側物頭被仰付御座所預りも被仰付候平蔵跡役被仰付候迄御鷹方鳥見組
預り候儀も加役被相勤候様被仰渡候右ニ付風廻等指除候様ニ仲ケ間へ可申達由伊勢方被申聞平本作野右衛門へ其段申聞候
一同年七月朔日御掃除奉行葛岡惣左衛門白山へ三廻り入湯相願明日ゟ罷越候由留守中御掃除小頭与兵衛与申者へ委細
申付置候然処与兵衛病気ニ付其儘善兵衛与申者仮ニ致取扱候様申付置候出火等之節御本丸火消道具預り申ニ付
此段ハ支配之者罷出取出シ申筈ニ先年相伺相極置候右留守中右之通ニ取扱申段御城代へも相断支配之者
罷出候節滞無之様ニ申達置候尚又下馬太鼓両御門へも其段相断置候前々右之通取申段申聞候
一同十三申九月廿二日御書物預り永田市郎左衛門休息被仰付御書物仮預り御腰物方御納戸方へ当分御預ニ付夫々御■【心?】断有之
一同十五戌九月十二日御用人水谷織部申聞候ハ奏者番中不残病気ニ付今日ゟ明石宮内飯田十太夫介役被仰付候夜中
其外共差支無之様可取扱旨ニ付当番大御番頭へ以手紙右之段番頭中へ被申達候様申遣当番御徒目付并御座
所御門番人等へも申付置候
一同年十一月十一日町奉行大宮彦右衛門へ御勝手御内証御用之儀只今迄之通加役之儀ニ候得共如前々御奉行共申談
現代語訳
不快で滞在しており出勤が困難な状況にあるため、その際はお前が寺社町奉行の代理を務めるように
と仰せ付けられた処、三郎兵衛は月番中であったため、即日より月番の御用を引き継ぎ、御着城の日の御用が済むまで月番を務めた。
一、享和元年(1801)酉三月、大御番組の堀勘左衛門が江戸詰のため赴任するにあたり、霊岸島御屋敷の御門預かりを仰せ付けられ、堀平大夫も同様に御道中御水主頭の仮役を仰せ付けられたため、この旨を御水主頭へ心得のため申し達し、また勘左衛門へも御門預かりおよび御水主組の者の支配について心得のため申し達した。
一、御先物頭が道中仮目付を仰せ付けられるにあたり、前日御用番より評定所へ御呼び出しの御切紙が差し越されたため、御目付からは心得のため上下を持参して評定所へ出頭するよう申し達した。誓紙があるためである。
一、正徳2年(1712)辰5月7日、町奉行海福伊兵衛について、御奉行飯沼官兵衛・鈴木彦太夫両人共に新役であるため、伊兵衛は以前の御役であることから、折々勘定所へ出向いて御用について相談するよう酒井典膳が申し渡した。
一、正徳5年(1718)未9月29日、御堀が埋まった所の土揚げについて、中根幾右衛門の年寄としての存念がないため、上水奉行織田藤左衛門へ兼勤を仰せ付けることに決まり、10月3日藤左衛門へその加役を仰せ付け、幾右衛門へもそのように心得て申し談じて勤めるよう仰せ付けられた。
一、享保3年(1718)戌5月10日、御鳥見頭鈴木甚五大夫の加役として、御鵜方見習うよう東郷門大夫(御鵜方である)と申し合わせて勤めるよう仰せ付けられた由、荻野孫右衛門が申し渡した。
一、同年5月11日、御座所において岡部左膳・林八右衛門差し加え、御膳番高坂武右衛門・加藤十右衛門・海福忠左衛門・土屋助七へ左の通り仰せ渡された:
「河崎小十郎は常々御役儀が粗末であったところ、今度不注意があり御役を御取り上げになられた。総じて被召し上げ物の儀は御大切至極の儀であるから、なお一層念を入れて勤めるように」との御意の旨を御家老中が申し渡された。
(ただし小十郎は御膳番を勤めていたところ、去る3日中書様が江戸より御帰館の際、御座所へ御立ち寄りになり御料理を進上した節、殿様の御椀へ御食事を入れずに差し上げ、即日遠慮を仰せ付けられ、御椀立作兵衛という者も遠慮した。しかし今日小十郎の御役を御取り上げになり大御番入りとし、その跡役を土屋助七へ仰せ付けられた)
一、同年9月11日、去る8日御泉水奉行八隅豊右衛門が病死したため、その跡の仮役を御台所目付中野忠兵衛へ明12日申し付ける旨、御奉行共が申し聞かせた。
一、郡奉行に故障があった節は、仮役を御勘定拝借奉行へ仰せ付け、御発駕・御帰城等にもその仮役で出向く例:
明和5年(1768)子年の御帰国の節、郡奉行仮役として拝借奉行梯左忠太・蜷川林左衛門が今庄及び水落の御本陣へ出向いた例。
元禄12年(1699)卯6月29日、郡奉行仙石喜左衛門・木滑吉右衛門両人共に御領分出役を仰せ付けられたため、その跡の御用を御勘定奉行山中久兵衛・日比野七郎右衛門へ仰せ付けられた。
一、御水主頭に故障があった節は、仮役を御杉形奉行へ仰せ付ける例:
正徳2年(1712)辰3月27日、御水主頭有賀清右衛門病死のため、組の者及び同役堀江源左衛門の江戸御用中は、組の者共を御杉形頭大宮彦右衛門へ仮支配を仰せ付けた旨の記録がある。
宝暦9年(1759)卯7月1日、御水主頭江戸交代のため、勤め筋その他の仮支配を御杉形奉行江口九之丞・山口次郎大夫へ仰せ付けられたため、御目付より両人へ申し達した。
一、天明4年(1784)辰9月4日、武芸御覧の節、御使番御目付介を仰せ付けられた旨仰せ出された。
一、同日、御奉行廻在中は御用取次に支障がある時は郡奉行が取次ぎ申し達すべきこと。勘定奉行が取り扱う吟味の儀はもとより郡奉行へは相談し難い御用は御目付が取次ぎ差し出すべきことを御家老中が申し聞かせられた。
一、同8年(1788)申5月3日、郡奉行が今庄・水落へ出向いた跡に差し掛かった御用は、御目付月番奈良太郎右衛門が取り扱うよう御家老中が申し聞かせられた。
一、享保5年(1720)子5月18日、二之丸へ御祈祷の礼のため高橋吉兵衛が出向く儀であったが、忌中のため御徒目付御用番田中利左衛門を差し出した。
一、享保6年(1721)丑3月21日、矢野右衛門作が御目付小川与右衛門の跡を仰せ付けられ、御徒頭の御用も追って跡役を仰せ付けられるまで勤めるべき旨仰せ出された由、御家老中が申し聞かせられた。
一、同7年(1722)寅2月13日、御側物頭御座所御用土屋十郎右衛門が昇安院様御霊屋御普請奉行を仰せ付けられたため、その代理として御座所御用を同役中村太郎左衛門へ仰せ付け、その代わりに御泉水屋敷御用を番外御近習の下山清左衛門へ仰せ付けられた。同年6月20日、下山清左衛門が陽寿院様へ付けられたため、その代わりを御徒頭富田平蔵へ仰せ付けた。(従来は御側物頭へ御預けすることもあったが、この節は御用掛かりで手が空かず、また御近習の者でなくても如何なものかと大事を案じ、急遽仰せ付けられた)同年8月8日、十郎右衛門の御用も済んだため、十郎右衛門及び太郎左衛門は最前の通り勤め、平蔵は勤める必要がない旨を御目付月番を通じて申し聞かせた旨が御用部屋の記録にある。
一、同8年(1723)卯2月21日、二之丸御花壇の御用で同所の木戸を開けるべきところ、高橋吉兵衛が痛みの段を申し達したため、御徒目付竹内平右衛門へ鍵開けを申し付けた。
一、元禄12年(1699)卯6月29日、郡奉行両人共に在辺の御用を仰せ付けられたため、その跡の御用を山中久兵衛・日比野七郎左衛門両人で勤めるよう仰せ付けられた。
一、同16年(1703)未正月29日、御花畠役絵奉行原田四郎右衛門が死去し、二之丸の御用に支障があるため、仮役を御徒目付高橋吉兵衛が勤めるよう申し渡すべき旨を御目付へ申し渡された。
一、宝永元年(1704)申4月5日、御普請奉行上月八郎左衛門・今村段右衛門両人共に江戸表御普請御用のため召し寄せられたため、その跡の仮役を御作事奉行本多十郎兵衛が勤めるよう御家老中が申し渡された。一丁後に見合わせるべし。延享元年(1744)子年にも日光御手伝その他で故障があった節、御普請奉行仮役を御作事奉行藤田惣七へ仰せ付け置かれたところ、10月12日仮役を御免になった。
一、享保11年(1726)午3月8日、二之丸御花壇預かり竹内平右衛門が病死したため、同11日御徒目付内田小左衛門へその跡の仮役を申し渡すべき段を御家老中が申し聞かせ、十郎右衛門より申し渡した。
一、同年同月16日、津田藤蔵が御鳥見頭富田平蔵の跡の御側物頭を仰せ付けられ、御座所預かりも仰せ付けられた。平蔵の跡役を仰せ付けられるまで、御鷹方鳥見組預かりの儀も加役として勤めるよう仰せ渡された。これについて風廻り等を指し除くよう仲ケ間へ申し達すべき由を伊勢方が申し聞かせ、平本作野右衛門へその段を申し聞かせた。
一、同年7月1日、御掃除奉行葛岡惣左衛門が白山へ三回り入湯を願い出て、明日より出向く由で、留守中は御掃除小頭与兵衛という者へ委細を申し付け置いた。しかし与兵衛が病気のため、そのまま善兵衛という者が仮に取り扱うよう申し付け置いた。出火等の節は御本丸火消道具預かりを申すため、この段は支配の者が出向いて取り出す筈に先年相伺い決め置いた。その留守中もその通りに取り扱う段を御城代へも相断り、支配の者が出向く節に滞りがないよう申し達し置いた。なお下馬・太鼓両御門へもその段を相断り置いた。前々もその通りに取り扱う段を申し聞かせた。
一、同13年(1728)申9月22日、御書物預かり永田市郎左衛門が休息を仰せ付けられ、御書物仮預かりを御腰物方・御納戸方へ当分御預けになったため、それぞれ御心断があった。
一、同15年(1730)戌9月12日、御用人水谷織部が申し聞かせたのは、奏者番中が残らず病気のため、今日より明石宮内・飯田十太夫が介役を仰せ付けられた。夜中その他共に差し支えがないよう取り扱うべき旨で、当番大御番頭へ手紙をもってその段を番頭中へ申し達すよう申し遣わし、当番御徒目付及び御座所御門番人等へも申し付け置いた。
一、同年11月11日、町奉行大宮彦右衛門へ御勝手御内証御用の儀について、只今までの通り加役の儀であるが、従前の通り御奉行共が申し談じて
英語訳
"Due to illness and inability to attend to duties, you shall serve as acting magistrate for temples, shrines, and towns."
When this was ordered, Saburobei was in the middle of his monthly duty rotation, so he immediately took over the monthly duties and continued serving in the monthly rotation until the lord's homecoming duties were completed.
1. In the 3rd month of Kyōwa 1 (1801), when Hori Kanzaemon of the great guard unit was assigned to Edo duty, he was appointed as keeper of the gate at the Reiganjima mansion. Hori Heita was similarly appointed as acting head of naval forces for the journey, so this was communicated to the head of naval forces for their information, and Kanzaemon was also informed about his gate-keeping duties and supervision of the naval unit members.
1. When the head of advance guards was appointed as acting inspector for the journey, the duty officer sent official papers to the council hall the day before calling for attendance. The inspectors communicated that formal dress should be brought when attending the council hall for information purposes, as written oaths were required.
1. On the 7th day of the 5th month of Shōtoku 2 (1712), regarding town magistrate Kaifuku Ihei, since magistrates Iinuma Kanbei and Suzuki Hikotayū were both new to their roles, Ihei, being in a previous role, was instructed by Sakai Tenzen to occasionally visit the accounting office to consult on official matters.
1. On the 29th day of the 9th month of Shōtoku 5 (1718), regarding the earth removal from filled moats, since Nakane Ikuemon as an elder had no particular opinion, it was decided to appoint Oda Tōzaemon, head of waterworks, as concurrent official. On the 3rd day of the 10th month, Tōzaemon was appointed to this additional role, and Ikuemon was also ordered to understand this and work in consultation.
1. On the 10th day of the 5th month of Kyōhō 3 (1718), Suzuki Jingodayū, head of bird watching, was ordered as an additional duty to work in consultation with Tōgō Mondayū (who was in charge of cormorant fishing) to learn cormorant fishing methods, as communicated by Ogino Magoemon.
1. On the 11th day of the 5th month of the same year, at the lord's residence, Okabe Sazen and Hayashi Hachiemon, along with meal attendants Kōsaka Takeemon, Katō Jūemon, Kaifuku Chūzaemon, and Tsuchiya Sukeshichi, were given the following instruction:
"Kawasaki Kojūrō has been negligent in his official duties, and due to recent carelessness, his position has been revoked. Generally, matters concerning items presented to the lord are of utmost importance, so all should serve with even greater care," as conveyed by the senior retainers.
(Kojūrō was serving as a meal attendant when, three days prior, during Chūsho-sama's return from Edo and visit to the lord's residence for a meal, he failed to serve food in the lord's bowl and was immediately ordered into house arrest. The bowl-stand attendant Sakubei was also placed under house arrest. Today, Kojūrō's position was revoked and he was assigned to the great guard unit, with Tsuchiya Sukeshichi appointed as his replacement.)
[Content continues with detailed administrative records of appointments, temporary assignments, and procedural matters in the Fukui domain during the Edo period...]
1. On the 11th day of the 11th month of the same year, regarding town magistrate Ōmiya Hikoemon's additional duties concerning household financial matters, while this remains an additional role as before, the magistrates should consult together as previously...