翻刻
覚(おぼ)へ来(きた)りたるやと。尋((たづ)ねければ。彼(かの)親父(おやぢ)申けるは。
我(わが)習(なら)ひ来(きた)りしは。我(われ)相応(さうおう)のいろは字(じ)にて。かん
にんの四字(よじ)を守(まも)れと申 学問(がくもん)なり。此(この)学問(がくもん)をいた
して。腹(はら)の立(たつ)ことはいふに及(およ)ばず。言度事(いゝたきこと)も見度(みたき)
事(こと)も。かんにんの四字(よじ)を守(まも)りてこらへ。うまいものゝ
喰(くひ)たきも。よい衣服(なり)のしたきも。酒(さけ)の飲度(のみたき)も。遊度(あそびたき)も。
かんにんの四字(よじ)をまもりてこらへ。銭(ぜに)にてのけてをき
申に付(つき)て。身体(しんだい)の勝手(かつて)もよく。心(こゝろ)も身(み)も安楽(あんらく)になり
申候。有(あり)がたき学問(かくもん)を覚(おぼ)へ帰(かへ)り申候なりと。はなし
ければ。儒者(じゆしや)腹(はら)をかゝへて笑(わらふ)ていわく。扨(さて)〳〵教(おしへ)し
ものも。習(なら)ひしものも。何(いづ)れおとらぬ文盲(もんもう)かな。かん
にんは。たへしのぶといふ二字(にじ)にこそあれ。かんにんの
四字(よじ)といふことあるべきや。汝(なんぢ)も是(これ)より堪忍(かんにん)の二字(にじ)
といふべし。四字(よじ)といひて。人(ひと)に笑(わら)わるべからずと申
されければ。彼(かの)親父(おやぢ)申されけるは。其(その)元(もと)様(さま)のやう
なる。御学者(おがくしや)に申候へば。たへしのぶの。なんのかのと。