翻刻
【右丁】
西方院三人共に信長公に心をかよはしけると
聞へ候八月十日二三日頃には浅井か人将とも
朝倉の大名家老共も秀吉の才覚により
大方信長公に内意をかよはしけると見へ
申候それゆへ木の本面を引取り給ふと聞へ候
刀根坂にて追打大合戦あると申候刀根の
坂にての追打の次第は信長記に有之より
外の委義はしれ不申候ゆへ浅井三代軍
覚書にも信長記にゆつり書不申候爰に
ては義景の御心入残念に被存候
【左丁】
一義景江州面を引払ひ給ふ節信長公兼而
工みおかれし事なれは小谷は旗本計
人数出すへき便り多しすて置追討に打へき
と心得給ふ事なれは惣軍勢を以て跡
を追給ふに義景一怙の谷へも【脇書】「にて一戦すへき心」【見せ消ち】
入もなくして尾野へ身隠し給ふゆへ
ちり〳〵と成行申のよし
一信長公符中の龍門寺に着陣したまひて
佐久間右衛門尉柴田修理亮木下藤吉郎稲
葉伊与守不破河内守氏家左京亮伊
現代語訳
(前頁より続き)西方院の三人も、信長公に心を通じていたと聞かれております。八月十日前後(二・三日頃)には、浅井方の将兵たちも、朝倉の大名・家老たちも、秀吉の機転・工作によって、大方は信長公に内密に意を通じていたと見受けられます。それゆえ、(朝倉義景は)木ノ本の方面へ引き退かれたと聞いております。刀根坂にて追い打ちの大合戦があったと申します。刀根坂での追い打ちの次第については『信長記』に記されており、それ以上の詳しいことは知れませんので、『浅井三代軍覚書』においても『信長記』に譲り、書き記しません。ここでは、義景のお心入れが残念に思われます。
一、義景が江州(近江国)の方面を引き払われた際、信長公がかねてより策を講じておられたことでもあるので、小谷城については旗本の人数だけを出して守れば十分であり、(義景を)捨て置いて追い討ちにかけるべきと心得ておられたので、全軍をもって跡を追われました。ところが義景は一か所の谷へも〔脇書:「にて一戦すべき心」〕入ることもなく、尾野へ身を隠されましたので、(軍勢は)ちりぢりとなっていった由でございます。
一、信長公は(越前)符中の龍門寺に着陣なさり、佐久間右衛門尉・柴田修理亮・木下藤吉郎・稲葉伊予守・不破河内守・氏家左京亮・伊〔以下次頁へ続く〕