翻刻
○社寺(しやじ)并|行殿(あんでん)旧墟(きうきよ)
此地(このち)昔(むかし)は伊豆(いづ)神社(じんじや)の社領(しやれう)たり故(ゆへ)に嘗(かつ)て般若院(はんにやいん)の威(さか)
んなるや三千の支坊(しぼう)多(おほ)くはこの辺(へん)に散在(さんざい)し随(したがつ)て種(しゆ)
々(〳〵)の神社(じんしや)もまた多(おほ)し是(こ)れ此(この)小村(せうそん)にして社寺(しやじ)の数(すう)甚(はなは)
た多(おほ)き所以(ゆへん)なり
○湯前(ゆぜん)神社(じんじや) 上町(かみてう)にあり天平(てんぺう)勝宝(せうほう)中(ちう)少彦名尊(すくなひこなのかみ)を祭(まつ)
る《割書:祭神の説近来異論ありといふ然れども予は固より|神祇の事を詳らかにせざれば且らく旧説に依る》
《割書:下また|おなじ》世々(よゝ)石渡氏(いしわたうじ)神事(じんじ)を掌(つかさ)どる社前(しやぜん)に石碑(せきひ)あり本(ほん)
社(しや)の来歴(らいれき)を略記(りやくき)す文(ぶん)は信陽源(しんやうげん)通魏(つうぎ)の撰(せん)にして書(しよ)は
江戸(えど)の東江(とうこう)源鱗(げんりん)と見(み)ゆ明和(めいわ)七|年(ねん)九月|石渡(いしわた)親由(ちかよし)の建(たつ)
る所(ところ)なり石華表(いしのとりゐ)及(およ)ひ石燈籠(いしとうろう)二|基(き)ともに宝暦(ほうれき)安永(あんゑい)の
頃(ころ)久留米侯(くるめこう)の寄附(きふ)する所(ところ)なり
○来宮(きのみや) 上宿(かみしゆく)の北(きた)にあり五十猛尊(いそたけるのかみ)を祭(まつ)る熱海村(あたみむら)の
鎮守(ちんじゅ)なり和銅(わどう)三年の創立(そうりう)に係(かゝ)るといふ境内(けいだい)に大豫(おほく)
樟樹(すのき)二株(ふたかぶ)あり《割書:もと七株あり|神木と称す》大(おほ)さ凡(およそ)十五六|囲(かゝゐ)中身(なかみ)空(から)
洞(あな)にして数人(すにん)を容(い)るべし
○和田(わだ)八|幡(まん) 錦浦(にしきうら)西端(にしはつれ)和田磯(わだいそ)にあり伝(つた)へて源頼(げんより)
家(いへ)の信仰(しんこふ)する所(ところ)となす今(いま)僅(わつか)に其(その)旧墟(きうきよ)を存(そん)す
○今宮(いまみや) 天神山(てんじんやま)の南(みなみ)にあり事代主尊(ことしろぬしのかみ)を祭(まつ)る和田村(わだむら)
の鎮守(ちんじゆ)たり老樹(ろうじゅ)群立(ぐんりつ)清陰(せいいん)蒼々(そう〳〵)たり
現代語訳
○社寺並びに行宮・旧跡
この地は昔、伊豆神社の社領であった。そのため、かつて般若院が威勢を誇っていた頃には、三千の支坊の多くがこの辺りに点在し、それに伴って様々な神社もまた多く存在した。これが、この小さな村でありながら社寺の数が非常に多い理由である。
○湯前神社 上町にある。天平勝宝年間(749-757年)に少彦名尊を祀る。代々石渡氏が神事を司っている。社前に石碑があり、本社の由来を簡潔に記している。文は信陽源通魏の撰で、書は江戸の東江源鱗によるものと見える。明和七年(1770年)九月に石渡親由が建立したものである。石の鳥居及び石灯籠二基は、ともに宝暦・安永年間(1751-1781年)に久留米藩主が寄付したものである。
○来宮 上宿の北にある。五十猛尊を祀る。熱海村の鎮守である。和銅三年(710年)の創立によるという。境内に大きな楠の木が二株ある。大きさは凡そ十五、六抱えほどで、中身は空洞になっており数人が入ることができる。
○和田八幡 錦浦の西端、和田磯にある。源頼家が信仰した所と伝えられる。今はわずかにその旧跡を残すのみである。
○今宮 天神山の南にある。事代主尊を祀る。和田村の鎮守である。老木が群がり立ち、清らかな木陰が青々と茂っている。
英語訳
○Shrines, Temples, and Former Imperial Lodgings and Historic Sites
This area was formerly the shrine territory of Izu Shrine. Therefore, when Hannya-in Temple was at its peak of power, many of its three thousand branch temples were scattered throughout this vicinity, and accordingly, various shrines were also numerous. This is why this small village has such a remarkably large number of shrines and temples.
○Yuzen Shrine Located in Kamimachi (Upper Town). During the Tenpyō-shōhō era (749-757), it was dedicated to Sukunahikona-no-mikoto. The Ishiwata family has traditionally been in charge of the shrine's rituals. There is a stone monument in front of the shrine that briefly records the history of the main shrine. The text was composed by Shin'yō Gen Tsūgi, and the calligraphy appears to be by Tōkō Gen Rin of Edo. It was erected in September of Meiwa 7 (1770) by Ishiwata Chikayoshi. The stone torii gate and two stone lanterns were both donated by the Lord of Kurume during the Hōreki-An'ei period (1751-1781).
○Kinomiya Located north of Kamishuku (Upper Lodge). It enshrines Isotakeru-no-mikoto and serves as the guardian shrine of Atami Village. It is said to have been founded in Wadō 3 (710). Within the precincts are two large camphor trees, approximately fifteen to sixteen arm-spans in circumference, with hollow centers that can accommodate several people.
○Wada Hachiman Located at Wada Point at the western end of Nishiki Bay. It is said to have been a place of worship for Minamoto no Yoriie. Now only its former site remains.
○Imamiya Located south of Tenjinyama. It enshrines Kotoshironushi-no-mikoto and serves as the guardian shrine of Wada Village. Ancient trees stand in clusters, their clear shade luxuriantly verdant.