翻刻
張衡(ちやうかう)が西亰(せいけい)の賦(ふ)を はじ(始)めとして、ものに出(いで)たるおほく、
雄(を)には鯨(けい)䲔(けい)■【魚篇+敬】など通(かよ)はし書(か)き、雌(め)には鯢(げい)もじを用ふ、
また劉歒(りうきん)が西京(せいけい)雑記(ざき)には、漢(かん)の武帝(ぶてい)の石鯨(せきけい)の故事(ふること)
をさへ記(しる)したり、』佛經(ほとけぶみ)には、大寶積經(だいはうしやくぎやう)、不空羂索經(ふくうけんさくぎやう)、
佛本行集經(ぶつほんぎやうじつきやう)など、その外(ほか)論律傳(ろんりつでん)の典(ふみ)に、あ(數)また と(処)ころ
あら(見)はれ、大論(だいろん)に摩竭魚王(まかぎよわう)とあるを、翻譯名義集(ほんやくみやうぎしふ)
に鯨魚なりといは、新撰本草(しんせんほんざう)にも、麻竭(まか)の倭名(やまとな)久知(くぢ)
良(ら)とみゆ、』かく巖(いか)めしく奇(くす)しきものにいひさだせれ
ど、捕喫(とりくふ)わざをば知(しら)ざりけむ、本草書(ほんざうぶみ)に をさ(大概)〳〵
あげ(論)つらへることなし、そも(抑)〳〵上(かみつ)つ代(よ)に勇魚捕(いさなと)
れる さま(様)はいかゞなりけむ、中頃(なかごろ)には、弓もて射(い)、槍(ほこ)
もて突(つき)などせしに、纲組(あみぐみ)の わざ(術)興(おこ)りて / 𫒙(もり)を用(もちふ)ること
とはなれりとぞ、/ 𫒙(もり)とはその まもり(守)居(ゐ)て突當(つきあつ)る よし(義)
の名なるべし、』或(ある)説(せち)に、明應のころまでは、紀伊(きのくに)の熊野(くまの)
の海人(あま)、壹岐(いき)の潮津(しほづ)の浦に くだ(下)りゐて、鯨捕(くじらとる)を なり(業)
はひとし、そこの鎮守(ちんじゆ)に夷三郎殿(えびすさむらうどの)の社(やしろ)を いつき(齋)まつ(祭)
れるより、所(ところ)の名を えびす(夷)の浦と よぶ(唱)、これ(此)なぐ(無)は なき(類)
鯨(くぢら)纲場(あじろ)なるを、後(のち)に肥前(ひのみちのくち)の大村(おおむら)の漁人(あま)深澤(ふかざは)の某(なにがし)その
業(なりはひ)を受(うけ)つた(傳)へ、遂(つひ)に纲組出(あみくみで)の術(わざ)を はじ(始)め寛文延寶の
頃になりて、弘(ひろ)く行(おこな)はれて、纲組(あみぐみ)を出(いだ)す處おほ(多)くなり
現代語訳
張衡の西京賦をはじめとして、多くの書物に出ている。雄には鯨、䲔、■【魚篇+敬】などと通じて書き、雌には鯢の文字を用いる。また劉歆の西京雑記には、漢の武帝の石鯨の故事をさえ記している。仏経には、大宝積経、不空羂索経、仏本行集経など、その他論律伝の典籍に、数多くの箇所に現れ、大論に摩竭魚王とあるのを、翻訳名義集に鯨魚なりというのは、新撰本草にも、麻竭の和名を「くぢら」と見える。
このように厳めしく奇しきものに言い定められているけれど、捕獲して食べる方法は知らなかったのであろう。本草書に大概論じ連ねることはない。そもそも上代に勇魚を捕る様子はどのようなものであったろうか。中頃には、弓で射て、槍で突くなどしていたが、網組の技術が興って、銛を用いることとなったという。銛とはそのまま守り居て突き当てるという意味の名であろう。
ある説によると、明応の頃まで、紀伊国の熊野の海人が、壱岐の潮津の浦に下って来て、鯨捕りを生業としていた。そこの鎮守に夷三郎殿の社を斎き祭っていることから、その場所の名を夷の浦と呼ぶ。これは類のない鯨網場であるが、後に肥前の大村の漁人深沢の某がその業を受け伝え、遂に網組出の術を始めた。寛文・延宝の頃になって、広く行われて、網組を出す所が多くなった。
英語訳
Beginning with Zhang Heng's "Rhapsody on the Western Capital," whales appear in many works. For males, characters like 鯨 (kei), 䲔 (kei), and ■ [fish radical + 敬] are used interchangeably, while for females the character 鯢 (gei) is employed. Liu Xin's "Miscellaneous Records of the Western Capital" even records the historical episode of Emperor Wu's stone whale. In Buddhist scriptures, they appear in numerous places in works such as the Maharatnakuta Sutra, the Amoghapasha Sutra, the Buddhacarita Sutra, and other doctrinal texts on philosophy, precepts, and biography. What the Mahaprajnaparamita Sastra calls "Makara Fish King," the Collection of Translated Names identifies as whale fish, and the New Materia Medica also shows the Japanese name for makara as "kujira."
Although whales were thus described as awesome and wondrous creatures, the methods for catching and eating them were probably unknown. The materia medica texts generally do not discuss such matters. How exactly were whales hunted in ancient times? In the middle period, they used bows for shooting and spears for stabbing, but when netting techniques developed, harpoons came to be used. "Mori" (harpoon) is probably named for the meaning of staying in position and striking at the target.
According to one theory, until around the Meio era, fishermen from Kumano in Kii Province would come down to Shiozu Bay in Iki to make whale hunting their livelihood. Because they worshipped the shrine of Ebisu Saburo-dono as their tutelary deity there, the place came to be called Ebisu Bay. This was an unparalleled whale netting ground, but later a fisherman named Fukazawa from Omura in Hizen Province inherited this trade and eventually began the technique of organized netting. Around the Kanbun and Enpo eras, it became widely practiced, and many places began using organized netting.