翻刻
【版心書名】
煙草記
【右丁】
金薄紙(きんはくし)ににたるの意(こゝろ)にて名(なづく)るかこれ尤(もとも)美称(びしやう)なりたゞし
本綱(ほんかう)に金糸草(きんしさう)といふあり三字(さんじ)全同(まつたくおなじふ)して其物(そのもの)ことなり
返魂烟(はんごんゑん)返䰟草(はんごんさう)は 人(ひと)の血気(けつき)鬱々(うつ〳〵)【欝は俗字】として事(こと)にうみ睡眠(すいみん)を
催(もよふ)するの時(とき)たばこ一ふくのめは忽(たちま)ち正気(しやうき)になるの意(こゝろ)にて
なづくるかこれたばこの功能(こうのう)の名(な)なり
相思草(さうしさう)は 烟草(たばこ)を嗜(すく)人は日夜(にちや)つねにこれを相([あ]い)おもふて
暫時(しばらく)も忘(わするゝ)る【衍】ことなくまがなすきがなこれを呑(のむ)これは好(すき)の
はなはだしきとおもひの切(せつ)なるとの名(な)なり
烟酒(ゑんしゆ)は 気味(きみ)つよきたばこをおほくのめば嘔噦(おうえつ)【左ルビ:ゑづき】悪心(あくしん)【左ルビ:むね[わるし]】頭目(づもく)
昏暈(こんうん)【左ルビ:くるめく】をいたし酒(さけ)にゑふたるごとく苦(くるしむ)ことはなはだし
これゑふといふこと有(ある)の名(な)なり
但不帰(たんふき)は たばこうりたばこをになひ諸方(しよはう)に売廻(うりまは)るに
【左丁】
よく捌(さば)けるゆへ売(うり)残(のこ)るといふことなく売(うり)たらざる日(ひ)多(おゝ)きの
意(こゝろ)にて名(なづく)るかこれはやるの名(な)なり
淡婆姑(たんばこ) 淡把姑(たんばこ) 淡芭菰(たんばこ)は 烟草(たばこ)につきて人の名(な)なり
事(こと)奇説(きせつ)の中(なか)に見えたり
南蛮烟(なんばんゑん) 南蛮草(なんばんさう)は たばこはもと南蛮国(なんばんこく)より渡(わた)りし
物(もの)といふ意(こゝろ)にてなづくるかまた南霊草(なんれいさう)南草(なんさう)の二(ふたつ)も
同意(だうい)なるへし
慶長草(けいちやうさう)は 烟草(たばこ)は慶長年中(けいちやうねんちう)に渡(わた)りし物(もの)といふ説(せつ)に
よりてなづくるか
貧報草(びんぼうさう) 貧乏草(びんぼうさう)は 名義(めうぎ)費利(ひり)の評(へう)に見へたり
愛敬草(あいけうさう) 敬愛草(けいあいさう)は たばこ世(よ)にさかんに行(おこな)はるゝゆゑ
上(かみ)中(なか)下(しも)おの〳〵交(まじはり)に互(たがひ)に愛敬(あいけう)あるの意(こゝろ)にてなづくるか
現代語訳
【版心書名】
煙草記
【右丁】
金薄紙に似ているという意味で名付けるのだろうか。これは最も美しい称号である。ただし『本草綱目』に金糸草というのがあり、三文字全く同じだがその物は異なる。
返魂煙・返魂草は 人の血気が鬱々として事に倦み、睡眠を催す時に、たばこ一服吸えば忽ち正気になるという意味で名付けるのだろうか。これはたばこの効能による名前である。
相思草は 煙草を好む人は日夜常にこれを思い慕って、しばらくも忘れることなく、暇があればこれを吸う。これは好みが甚だしいことと思いの切なることによる名前である。
煙酒は 気味の強いたばこを多く吸えば嘔吐や悪心、頭目の眩暈を起こし、酒に酔ったように苦しむことが甚だしい。これは酔うということがあることによる名前である。
但不帰は たばこ売りがたばこを担いで諸方に売り回るのに
【左丁】
よく捌けるゆえに売れ残るということなく、売れない日が多いという意味で名付けるのだろうか。これは商売の名前である。
淡婆姑・淡把姑・淡芭菰は 煙草について人の名前になっている。奇説の中に見える。
南蛮煙・南蛮草は たばこは元来南蛮国より渡来した物だという意味で名付けるのだろうか。また南霊草・南草の二つも同じ意味であろう。
慶長草は 煙草は慶長年間に渡来した物だという説によって名付けるのだろうか。
貧報草・貧乏草は 名義は費用の評価に見える。
愛敬草・敬愛草は たばこが世に盛んに行われるゆえに、上中下がそれぞれの交わりに互いに愛敬があるという意味で名付けるのだろうか。