翻刻
抱き付ば.松寿驚き.衣を振(ふる)ふて起上る.娘今は
恨のあまり.難面(つれなき)人を生(いか)し置じ.同じ冥(めい)
途(ど)へともなはんと.猟具(りやうぐ)を取て飛懸る.松寿は
魂(たましい)九天(きうてん)に飛.夢路(ゆめじ)をたどる心地して.足を■
に逃出すを.何国までもと追来る.其早き事
飛鳥の如し.松寿やう〳〵逃延て.此山の
曲(くま)にある。万寿寺といふ寺に駈入.しか〳〵の
由を相語れは.住持 普徳’(ふとく)といふ僧は.行徳(きやうとく)
いみしく.才覚ある僧なりければ.すなはち
松寿を鐘楼(しゆろう)へともなひ.大鐘(おほかね)の内に伏(ふさ)しめ.
三人の徒弟(でし)をして。其 傍(かた)へ辺を看守(まもり)しむ。とばかり
有て彼娘。姿あらはにしたひ来り。三人の僧に問。
何れも知ざる躰にもてなし。戯(たはむれ)嬲(なぶ)りて帰らしめ
んとす。娘は松寿を求得ず。狂気の如く泣叫(なきさけ)び。
猶も行衛を尋んと。門外へ駈出れは。僧共今は心
易しと。件(くだん)の鐘を退(のけ)んとす。其物音。山彦(やまびこ)に
響(ひゞ)きければ。女早くも跑戻(かけもど)り。髪振乱し形(きやう)
相(さう)変り。恋しき人は此鐘の内にこそ有(あつ)たんなれ
と。鐘の内へぞ入にける。住僧驚き。諸僧と倶に。
鐘を繞(めぐ)りてこれを祈(いの)る。行法(きやうほう)の験(しるし)にや。かねは