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コレクション: 漂流記コレクション

日本漂流譚 - 翻刻

日本漂流譚 - ページ 14

ページ: 14

翻刻

【右頁】 【版心の中央部:(十四)】 路(みち)の程(ほど)、丘陵(きうりやう)の起伏(きふく)する処(ところ)もあれども、大概(たいがい)は平坦(へいたん)にして、道幅(みちはヾ)七八 間(けん)又 は十 間(けん)計(ばかり)づゝありてよく開通(かいつう)し、道中(だうちう)の宿駅(しゆくえき)は、日本よりは劣(おと)れども、甚(はなは) だ悪(あ)しきにあらず。韃靼(だつたん)と明国(みんこく)との国境(くにざかひ)を過(す)ぐるときは、万里(ばんり)の長城(ちやうじやう) といふものあり。此長城は、石(いし)を以(もツ)て築(きづ)きたるにはあらで、瓦(かはら)を積(つ)める ものなり。高(たか)さは十二三 間(げん)ほどなるべく、厚(あつ)さ三四寸の瓦(かはら)をしツくひ 詰(づめ)になし、かたく見(み)うけらるゝことは、焼物(やきもの)に薬(くすり)をかけし如(ごと)くにて、殊(こと)の外(ほか) 古(ふる)く見(み)ゆれども、少(すこ)しも破損(はそん)したる所(ところ)なし。通路(つうろ)の処(ところ)は、此 石垣(いしがき)を円(まろ)く くりぬき、其 上(うへ)に門矢倉(もんやぐら)立(た)ちたり。此 円(まろ)き処(ところ)も、薬(くすり)をかけたる如(ごと)くにて、 爪(つめ)もかゝることなし。かくて三十五六 日目(にちめ)には、一日 路(ぢ)ほど海辺(かいへん)を通(とほ)り、 処々に小川(をがは)はあれども、船渡(ふなわた)りほどの川(かは)とてはなく、トクチヨ(═══════)といふ所(ところ) の、はば二 町(ちやう)ほどの舟橋(ふなばし)を渡(わた)りてのちは、道傍(だうばう)に大名(だいめう)の居城(きよじやう)多(おほ)くあり。 皆々(みな〳〵)、三十四五日 或(あるひ)は四十日 計(ばか)りかゝて、申(さる)の年(とし)の十月 霜月(しもつき)の間(あひだ)に、北(ぺ) 【左丁】 【版心の中央部:(十五)】 京城(きんじやう)につきにけり。此間 路(みち)すがら、韃靼(だツたん)より北京(ぺきん)に移住(いぢゆう)する男女(なんによ)引(ひ)き もきらず見受(みう)けぬ。  北京(ぺきん)に着(ちやく)するや、奉行所(ぶぎやうしよ)へ召出(めしいだ)され、家(いへ)を渡(わた)されしが、其 造作(ぞうさく)などは、皆(みな) 此方(こなた)の望(のぞ)みに任(まか)せられたり。常(つね)に人足(にんそく)三人を附(つ)けて、諸般(しよはん)の給仕(きふじ)を弁(べん) ぜしめ、一人に白米(はくまい)一 升(しやう)、豚(ぶた)一 斤(きん)、麦粉(むぎこ)、蕎麦粉(そばこ)、茶(ちや)、酒(さけ)、鵞鳥(がちやう)二つ、薪(たきぎ)は焚次第(たきしだい)、肴(さかな)、 野菜(やさい)、味噌(みそ)、塩(しほ)、米(こめ)等を日毎(ひごと)に渡(わた)され、絹布(けんぷ)の衣類(いるゐ)木綿(もめん)の蒲団(ふとん)、或は帽子(ばうし)、足袋(たび) の装束(しやうぞく)に至(いた)るまで、何一(なにひと)つ不足(ふそく)なく給与(きうよ)せられたり。  さて北京(ぺきん)の王城(わうじやう)は、日本 道程(みちのり)六 里四方(りしはう)ほどあるよしにて、総廻(そうまは)りは石(いし) 垣(がき)高(たか)く積(つ)み上(あ)げ、口々(くち〴〵)は円(まろ)くくりぬきて通路(つうろ)となし、上(うへ)に門矢倉(もんやぐら)を立(た)て、 総廻(そうまは)りに大砲(たいはう)を仕(し)かけたる所(ところ)もあり。其 中央(ちうわう)に、二十町 四方(しはう)ほどに堀(ほり) をほり廻(まは)し、其 中(うち)に宮殿(きうでん)多く構(かま)へたり。四方(しはう)に四 口(くち)の門(もん)ありて、其 中(うち)三 方(ぱう)の門(もん)には、三(みツ)つの橋(はし)を架(か)けたれども、独(ひと)り大手(おほて)の門(もん)には、大(たい)なる石橋(いしばじ)【いしばしヵ】を 【文中のカタカナ「ツ」は促音を表していると思われ、そのまま翻刻した。ただし、「韃靼」のルビは十八行目のみ「ツ」で、五行目とコマ12、13は「つ」。】

現代語訳

【右頁】 道中は、丘陵の起伏するところもあるが、大概は平坦で、道幅は七八間または十間ほどずつあってよく整備されており、道中の宿駅は、日本よりは劣るものの、それほど悪くはない。韃靼と明国との国境を過ぎる時は、万里の長城というものがある。この長城は、石で築いたものではなく、瓦を積み重ねたものである。高さは十二三間ほどで、厚さ三四寸の瓦を漆喰詰めにして、堅く見受けられることは、焼物に釉薬をかけたようで、殊の外古く見えるが、少しも破損したところがない。通路のところは、この石垣を円くくり抜き、その上に門櫓が建っている。この円い部分も、釉薬をかけたようで、爪も引っかからない。こうして三十五六日目には、一日ほど海辺を通り、所々に小川はあるが、船で渡るほどの川はなく、トクチョという所の、幅二町ほどの舟橋を渡った後は、道端に大名の居城が多くある。皆々、三十四五日あるいは四十日ほどかかって、申の年の十月霜月の間に、北 【左丁】 京城に着いた。この間道すがら、韃靼より北京に移住する男女を引きも切らず見かけた。 北京に着くと、奉行所へ召し出され、家を与えられたが、その造作などは、皆こちらの希望に任せられた。常に人足三人を付けて、諸般の世話をさせ、一人に白米一升、豚肉一斤、麦粉、蕎麦粉、茶、酒、鵞鳥二羽、薪は燃やし放題、魚、野菜、味噌、塩、米等を日毎に渡され、絹布の衣類、木綿の蒲団、あるいは帽子、足袋の装束に至るまで、何一つ不足なく給与された。 さて北京の王城は、日本の道程で六里四方ほどあるということで、総回りは石垣を高く積み上げ、入口は円くくり抜いて通路とし、上に門櫓を建て、総回りに大砲を設置した所もある。その中央に、二十町四方ほどに堀を掘り回し、その中に宮殿を多く構えている。四方に四つの門があって、そのうち三方の門には、三つの橋を架けているが、一つ大手の門には、大きな石橋を

英語訳

【Right Page】 Along the route, there were some places with rolling hills, but it was generally flat, with road widths of seven to eight ken or about ten ken each, well-maintained and open. The post stations along the way were inferior to those in Japan, but not particularly bad. When crossing the border between Tartary and Ming China, there was something called the Great Wall. This Great Wall was not built of stone, but was made of stacked tiles. It was about twelve to thirteen ken high, made of tiles three to four sun thick packed with mortar, appearing solid like pottery glazed with medicine, and though it looked extremely old, there was no damage anywhere. At the passageways, this stone wall was carved out in circles, with gate towers built above. These circular sections also appeared glazed like pottery, so smooth that even fingernails could not catch on them. After thirty-five or thirty-six days, they traveled along the coast for about a day. Though there were small streams here and there, there were no rivers requiring ferry crossings. After crossing a pontoon bridge about two cho wide at a place called Tokucho, there were many daimyo castles along the roadside. All told, it took thirty-four or thirty-five days, or perhaps forty days, and they arrived in Bei- 【Left Page】 jing during the tenth or eleventh month of the Year of the Monkey. Throughout this journey, they continuously saw men and women migrating from Tartary to Beijing. Upon arriving in Beijing, they were summoned to the magistrate's office and given houses, with all construction work left to their preferences. They were constantly provided with three laborers to handle various services, and each person was given daily rations of one sho of white rice, one kin of pork, wheat flour, buckwheat flour, tea, sake, two geese, firewood as needed, fish, vegetables, miso, salt, rice, etc. They were provided without shortage with silk clothing, cotton bedding, hats, tabi socks and other garments. Now, Beijing's royal castle was said to be about six ri square in Japanese measurements, with stone walls built high all around, entrances carved out in circles as passageways, gate towers built above, and cannons installed in places around the perimeter. In the center, a moat was dug around an area of about twenty cho square, with many palace buildings constructed within. There were four gates on the four sides, with three bridges built at three of the gates, but at the main entrance gate alone, there was a large stone bridge.