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【右丁】
さりてよし。さて其地(そのち)に着(つ)きたる後(のち)は、代官(だいくわん)に引渡(ひきわた)され、光太夫(くわうだゆう)は代官(だいくわん)
の宅(たく)に残(のこ)り、八人は旅宿(りよしゆく)に、役人(やくにん)一人 医者(いしや)一人 卒(そつ)二人を附(つ)けおかれぬ。
食物(しよくもつ)は、代官所(だんくわんじよ)より、始(はじめ)の程(ほど)は麦粉(むぎこ)やうの物(もの)を給(きふ)せられしが、後(のち)には、牛肉(ぎうにく)
牛乳(ぎうにう)等(とう)を送(おく)られたれば、食馴(くひなれ)ざる物(もの)ゆえ返上(へんじよう)せしに、さらばとて干魚等(ひざかなとう)
を給(きふ)せられぬ。然(しか)るに折(をり)あしく、当地(とうち)飢饉(ききん)にて、餓死(がし)するものさへ多(おほ)か
る状況(じやうけう)なれば、代官所(だんくわんしよ)にても、食物(しよくもつ)に差支(さしつかへ)たるにや、一日に、八 人(にん)の者(もの)へ牛(ぎう)
肉(にく)と米(こめ)一 合(ごふ)づゝ渡(わた)され、到底(とうてい)食(しよく)足(た)らず、歩行(ほこう)もなりがたきまでに飢(う)えつ
かれたり。此時(このとき)宿(やど)の亭主(ていしゆ)の教(をしへ)に従(したが)ひ、桜樹(さくら)の上皮(うはかは)をむき去(さ)り、中(なか)なる甘(あま)
皮(かは)を食(くら)ひけるが、来(きた)る五月まで凌(しの)がば、川魚(かはうを)も多(おほ)く得(え)らるべしとて、代官(だいくわん)
より懇(ねんごろ)なる慰(なぐさ)めもあることゆえ、辛抱(しんばう)して日(ひ)を送(おく)る中(うち)此(この)悪食(あくじき)に耐(た)へざり
けん、八 年(ねん)四月五日より五月六日までの間(あひだ)に与三松(よさまつ)勘(かん)十 郎(らう)藤蔵(とうざう)は病死(べうし)
せり。一 人(とり)減(へ)り二人(ふたり)減(へ)り、次第(しだい)に減(へ)るのみなれば、何時(いつ)か我身(わがみ)もかくあ
【左丁】
らんと、そゞろに旅(たび)の衣(ころも)をぬらしぬ。この辺(へん)は極(きは)めて寒地(かんち)にて、人皆(ひとみな)河(かは)
水(すい)の凍(こほ)りたる上(うへ)に、雪車(そり)を犬(いぬ)にひかせて往来(わうらい)するなり。
去(さ)るほどに五月となり、いさゝか暖気(だんき)を催(もよほ)し、川々(かは〳〵)の氷(こほり)も溶け、チエツ
チヤとて鮭(さけ)に似(に)て大(だい)なる魚(うを)数(あま) 《割書:大塚家族の図。|》
多捕(たと)れたれば、始(はじ)めて蘇生(そせい)の思(おも) 《割書:丸大木(まるたいぼく)を|》
ひをなしぬ。同六月十五日に 《割書:横に重ね|》
は、役人(やくにん)足軽(あしがる)等(とう)の附添(つきそい)にてこゝ 《割書:組み上げ|》
を立(た)ち、川船(かはふね)に乗(の)り、又は山路(やまぢ)を 《割書:たる家に|》
馬(うま)にて越(こ)え、三百七十 里(り)ほど隔(へたゝ) 《割書:て屋根に|》
《割書:ハ板(いた)を用(もち)|》
《割書:ふ。|》
りたる地桐(チキリ)に到着(とちやく)せしに、光大夫(くわうだいう)を始(はじ)め一同(いちどう)、銀貨(ぎんくわ)若干(そこばく)を給(きふ)せられ、同八
月一日に又 同地(どうち)を出帆(しゆつぱん)し、八百 里(り)の海上(かいじよう)を過(す)ぎて、同三十日 大塚(オホーツカ)といふ
港(みなと)に着(つ)きけり。此間(このあひだ)、海上(かいしよう)にて食物(しよくもつ)つき、三日が程(ほど)は水まて乏(とぼ)しくなり、
現代語訳
【右丁】
まことによろしい。さて、その地に着いた後は、代官に引き渡され、光太夫は代官の宅に残り、八人は旅宿に、役人一人、医者一人、卒二人を付けられた。食物は、代官所より、始めの頃は麦粉のような物を給付されたが、後には、牛肉、牛乳等を送られたので、食べ慣れない物故に返上したところ、それならばということで干魚等を給付された。しかるに折悪しく、当地は飢饉で、餓死する者さえ多い状況であるので、代官所でも、食物に差し支えたのであろうか、一日に、八人の者へ牛肉と米一合ずつ渡され、到底食い足らず、歩行もできないほどに飢え疲れた。この時宿の亭主の教えに従い、桜の木の上皮をむき去り、中にある甘皮を食べたが、来る五月まで凌げば、川魚も多く得られるであろうということで、代官より懇ろな慰めもあることなので、辛抱して日を送る中、この悪食に耐えられなかったのであろうか、八年四月五日より五月六日までの間に与三松、勘十郎、藤蔵は病死した。一人減り二人減り、次第に減るのみなので、いつか我が身もこのようになるのだろうと、そぞろに旅の衣を濡らした。この辺りは極めて寒地で、人皆、河水の凍った上に、雪車(そり)を犬に引かせて往来するのである。
【左丁】
さて五月となり、いささか暖気を催し、川々の氷も溶け、チエッチャという鮭に似て大きな魚が数多く捕れたので、始めて蘇生の思いをなした。同六月十五日には、役人足軽等の付き添いでここを立ち、川船に乗り、また山路を馬で越え、三百七十里ほど隔たったチキリという地に到着したところ、光太夫を始め一同、銀貨若干を給付され、同八月一日に又同地を出帆し、八百里の海上を過ぎて、同三十日オホーツクという港に着いた。この間、海上で食物が尽き、三日ほどは水まで乏しくなり、
(注:右丁の割書部分は「オホーツク家族の図」「丸太を横に重ね組み上げた家にて屋根には板を用いる」という建築の説明が含まれている)
英語訳
【Right Page】
Very well then. After arriving at that place, they were handed over to the magistrate. Kōdayū remained at the magistrate's residence, while the eight others were lodged at an inn with one official, one doctor, and two soldiers assigned to them. For food, the magistrate's office initially provided something like wheat flour, but later sent beef, milk, and such. Since these were unfamiliar foods, they returned them, whereupon they were given dried fish instead. Unfortunately, the area was suffering from famine at the time, with many dying of starvation, so perhaps the magistrate's office was also having difficulty with food supplies. Each day, the eight men were given beef and one gō (cup) of rice each, which was utterly insufficient, leaving them so hungry and exhausted they could barely walk. At this time, following the innkeeper's instruction, they peeled off the outer bark of cherry trees and ate the sweet inner bark. The magistrate kindly consoled them, saying that if they could endure until May, they would be able to catch many river fish. While they patiently passed their days, perhaps unable to endure this poor diet, between April 5 and May 6 of the eighth year, Yosamatsu, Kanjūrō, and Tōzō died of illness. With one person gone, then two, their numbers steadily decreasing, they thought that someday they too would meet the same fate, and found themselves weeping into their travel clothes. This area was extremely cold, and everyone traveled on the frozen river surface, with dogs pulling sleds.
【Left Page】
Then came May, bringing some warmth, the ice on the rivers melted, and they caught many large fish called "chetcha" that resembled salmon, which finally gave them hope of survival. On June 15 of the same year, accompanied by officials and foot soldiers, they left this place, traveling by river boat and on horseback over mountain paths, arriving at a place called Chikiri about 370 ri distant. There, Kōdayū and all the others were given some silver coins, and on August 1 they again set sail from the same place, crossing 800 ri of ocean to arrive on the 30th at a port called Okhotsk. During this time, their food ran out at sea, and for about three days even water became scarce.
(Note: The marginal notes on the right page contain a description of Okhotsk family dwellings: "houses built by stacking logs horizontally with board roofing")