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コレクション: 漂流記コレクション

日本漂流譚 - 翻刻

日本漂流譚 - ページ 47

ページ: 47

翻刻

【右丁】 【版心の中央部:(八十)】 に三日 間(かん)づゝさらさるゝもの尠(すく)なからず。之(これ)を見(み)れは、繋(つな)がれをる猿(さる) にひとしきものゝ目(め)にも、いと気(き)の毒(どく)にぞ見(み)えにける。  此処(こヽ)に滞在中(たいざいちう)、四人の内(うち)一人 病(やまひ)にかゝり、容体(やうたい)軽(かろ)からぬ風(ふう)なりしかば、 医師(いし)四五人つき添(そ)ひ、絶(た)へず煎薬(せんやく)を与(あた)へ、昼夜(ちうや)の看護(かんご)人三十人ばかりつ けおかれて、最(いと)も懇切(こんせつ)の療養(れうやう)にあづかりしかども、薬石(やくせき)其の効(しるし)なく、遂(つひ)に 鬼籍(きせき)に上(のぼ)りければ、厚(あつ)き礼(れい)を以て其(そ)の地(ち)に葬(ほうむ)られたり。其の葬式(そうしき)のあ らましを語(かた)らんに、棺(くわん)槨(かく)ともに甚(はなは)だ美麗(びれい)なるものにて、棺(くわん)になきがらを おさめて後(のち)、朱(しゆ)を一杯(いつぱい)に盛(も)りたり。さて野辺(のべ)の送(おく)りには、上下(じやうか)数多(あまた)の官(くわん) 人(じん)を始(はじ)めとして、市中(しちう)の四民(しみん)其(そ)の数(かず)数(す)千人。引導(いんだう)には、百五十人 計(ばか)りの 僧(そう)と一人(ひとり)の大和尚(だいをしやう)、威儀(ゐぎ)正(たヾ)しく立幷(たちなら)びて、読経(どくきやう)の声(こえ)絶間(たえま)なし。殊(こと)に此方(こなた) の三人は、例(れい)の板輿(いたこし)に乗(の)りて送(おく)りしが、国王(こくわう)の菩提所(ぼだいしよ)とも覚(おぼ)しき大寺(おほてら)の 内(うち)に、いと丁寧(ていねい)に埋葬(まいさう)の式(しき)を行(おこな)ひ、門前(もんぜん)に、朱墨(しゆずみ)もて日本人と大書(たいしよ)したる 【左丁】 【版心の中央部:(八十一)】 大板(おほいた)を建(た)てゝ其(そ)の標(しるし)としたり。かくて後(のち)一七 日(にち)の間(あひだ)は、男女(なんによ)老若(らうにやく)群集(ぐんじゆ) して、参詣(さんけい)するもの夥(おびたヾ)しく、其(そ)の国(くに)の大臣(だいじん)などの、死(し)して国葬(こくさう)の典(てん)を挙(あ)ぐ るも、これにはまさじと思(おも)はれて、あとに残(のこ)りし三人も、いと面目(めんもく)の心地(こヽち) せり。  さて、亡(な)き人(ひと)の四十九 日(にち)を過(す)ぎぬれば、三人は此地(このち)を出発(しゆツぱつ)して。こゝに 二日 彼処(かなた)に三日と逗留(とうりう)しつゝ、百日あまりも費(つい)やして、此国(このくに)の境(さかひ)を出離(ではな) れたり。それより馬(うま)にて二十 里(り)ばかりを過(す)ぎし程(ほど)に、路(みち)坂(さか)険(けは)しき山道(やまみち) にかゝり、又(また)板輿(いたこし)に打乗(うちの)りて五十 余日(よじつ)進(すヽ)みしに、始(はじ)めて平野(へいや)に出(い)で、さて あまたの城下(じやうか)を過(す)ぎて、ニリウヰ(════════)川といふ大河(たいか)あり。川 幅(はヾ)五 里半(りはん)ほど ありて、南岸(なんがん)に幅(はヾ)五六 里(り)の河原(かはら)あり。此川を越(こ)す日(ひ)は未明(みめい)に出発(しゆツぱつ)し、翌(よく) 日(じつ)夜(よる)の五(いつ)ツ時(どき)[《割書:今の午後|八時》]過(すき)に至(いた)りて、やうやく彼岸(ひがん)の一 駅(えき)に着(つ)きにけり。 此川は最(もツと)もけわしき急流(きふりう)にて、水声(すゐせい)怒号(どごう)、高(たか)さ四五尺ほどつゝの泡沫(あわ)幾(いく) 【二十八行目の[ ]は亀甲括弧】 【文中のカタカナ「ツ」は促音を表している(二十八行五字目は数を表している)と思われ、そのまま翻刻した。】

現代語訳

【右丁】 【版心の中央部:(八十)】 に三日間ずつさらされる者も少なくなかった。これを見れば、繋がれている猿と同じような目にも、とても気の毒に見えた。 ここに滞在中、四人のうち一人が病気にかかり、容体が軽くない様子だったので、医師四五人が付き添い、絶えず煎じ薬を与え、昼夜の看護人三十人ばかりを付けて、最も懇切な療養を受けたけれども、薬石もその効果なく、ついに死んでしまったので、厚い礼をもってその地に葬られた。その葬式の概要を語ろう。棺も槨もともに甚だ美麗なもので、棺に亡骸を納めた後、朱を一杯に盛った。さて野辺送りには、上下数多の官人を始めとして、市中の四民がその数数千人。引導には、百五十人ばかりの僧と一人の大和尚が、威儀正しく立ち並んで、読経の声が絶え間なかった。特にこちらの三人は、例の板輿に乗って送ったが、国王の菩提所と思われる大寺の中に、とても丁寧に埋葬の式を行い、門前に、朱墨で「日本人」と大書した 【左丁】 【版心の中央部:(八十一)】 大板を建ててその標とした。こうして後一七日の間は、男女老若が群集して、参詣する者がおびただしく、その国の大臣などが死して国葬の典を挙げるのも、これには及ばないと思われて、後に残った三人も、とても面目を施した気持ちがした。 さて、亡き人の四十九日を過ぎると、三人はこの地を出発して、ここに二日、あそこに三日と逗留しつつ、百日あまりも費やして、この国の境を離れた。それから馬で二十里ばかりを過ぎたところで、道が険しい山道にかかり、また板輿に乗って五十余日進んだところ、初めて平野に出て、そして多くの城下を過ぎて、ニリウヰ川という大河があった。川幅五里半ほどあって、南岸に幅五六里の河原があった。この川を越す日は未明に出発し、翌日夜の五ツ時(今の午後八時)過ぎに至って、ようやく彼岸の一駅に着いた。この川は最も険しい急流で、水音が怒号し、高さ四五尺ほどずつの泡沫が幾

英語訳

【Right Page】 【Page center: (80)】 Many were exposed at the gate for three days at a time. When we saw this, even to eyes like those of tethered monkeys, it appeared most pitiful. During our stay here, one of the four fell ill, and his condition appeared quite serious. Four or five doctors attended to him, continuously providing herbal medicines, with about thirty day-and-night nurses assigned, receiving the most caring treatment. However, the medicines had no effect, and he finally died, so he was buried in that land with great ceremony. Let me describe the outline of that funeral. Both the coffin and the outer casket were extremely beautiful, and after placing the corpse in the coffin, it was filled completely with vermillion. For the funeral procession, there were numerous officials of all ranks, and from the townspeople, several thousand of the four social classes. For the funeral service, about 150 monks and one great priest stood in proper ceremonial order, with the sound of sutra chanting never ceasing. In particular, we three rode in the usual palanquins for the procession, and the burial ceremony was conducted most carefully in a great temple that seemed to be the royal family's ancestral temple. At the gate, a large board inscribed with "Japanese" in vermillion ink was erected 【Left Page】 【Page center: (81)】 as a marker. For the following seven days, men and women, old and young gathered in crowds, and those who came to pay respects were countless. Even when great ministers of that country died and received state funerals, it seemed this would not be surpassed, and the three of us who remained felt quite honored. After the deceased's forty-ninth day memorial passed, the three of us departed from this place. Staying two days here and three days there, spending over a hundred days, we left the borders of this country. From there, after traveling about twenty ri by horse, we came upon treacherous mountain roads, and rode in palanquins again for over fifty days until we finally emerged onto plains. Then, passing many castle towns, we came to a great river called Niriuwi River. The river was about five and a half ri wide, with a riverbank five or six ri wide on the south shore. On the day we crossed this river, we departed before dawn, and it was past the fifth hour of night the following day (8 PM today) when we finally reached a post station on the far shore. This river was an extremely treacherous rapid current, with water roaring angrily, and foam several