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コレクション: 漂流記コレクション

日本漂流譚 - 翻刻

日本漂流譚 - ページ 48

ページ: 48

翻刻

【右丁】 【版心の中央部:(八十二)】 百 塊(くわい)となく湧(わ)きかへれり。されば舟(ふね)にて此流(このなかれ)を横(よこ)ぎるときは、今(いま)や覆(くつがへ) らんと思(おも)はれて、気(き)も心(こヽろ)も身(み)にそはず、おそろしなんど言(い)はんも愚(おろか)なり。 さてやう〳〵にして渡(わた)りはてぬれば、見渡(みわた)すかぎり平野(へいや)にして、村里(そんり)相(あひ) 連(つらな)り田圃(でんぽ)相接(あひせツ)して、風光(ふうくわう)最(もツと)も佳(か)なり。此(こ)の平地(へいち)に出(い)でゝより、急(いそ)ぎもせ ざりければ、九十 日(にち)ばかりを費(つい)やして、とある港(みなと)に出(い)でぬ。それより船(ふね) にのりて、又も五十日 程(ほど)を経(へ)て、始(はじ)めて清国(しんこく)の福州(フクチウ)といふ地(ち)に着船(ちやくせん)した り。  福州(フクチウ)に着(つ)きければ、前(まへ)の島国(しまぐに)とは形勢(けいせい)いと異(ことな)りて、目(め)に触(ふ)るゝ所(ところ)、日本(にほん) の景色(けしき)に彷彿(ほうふつ)たるもの尠(すく)なからず。これよりは、七八十人の送(おく)り人と 二三人の医師(いし)つき添(そ)ひ、宿駅毎(しゆくえきごと)に山海(さんかい)の珍味(ちんみ)を饗(きやう)せられ、日 数(かず)大凡(おほよそ)百五 十日ばかりにて、二月の下旬(げじゆん)、やうやく南京(なんきん)の都(みやこ)につきにける。路(みち)すが ら見(み)えたる所(ところ)の城(しろ)は、其 数(かず)百にも余(あま)りぬべく、何(いづ)れも結構(けツこう)宏壮(くわうさう)にして其(そ) 【左丁】 【版心の中央部:(八十三)】 の中(うち)天守閣(てんしゆかく)と覚(おぼ)しきは十四五ケ所(しよ)も見受(みう)けたり。其の外(ほか)楼櫓(ろうろ)の数(かず)は 到(いた)る所(ところ)に多(おほ)くして、一々(いち〳〵)記臆(きおく)するに遑(いとま)あらざりき。さて、途中(とちう)には数々(しば〳〵) 大名(だいめう)の行列(ぎやうれつ)に行(ゆ)き違(ちが)ひけるが、都(すべ)て日本(にほん)とは事変(ことかは)りて、先払(さきばらひ)といふことな く、鎗(やり)長刀類(なぎなたるゐ)は少(すこ)しも携(たづさ)へず、種々(しゆ〴〵)の幟(はた)を樹(た)て笛(ふえ)太鼓(たいこ)其他(そのた)の鳴物(なりもの)のおか しき拍子(ひやうし)にて進(すヽ)み行(ゆ)けり。就中(なかんづく)公子(こうし)と覚(おぼ)しきものは、すべて輿(こし)に乗(の)り たりけるが、其の輿(こし)は朱塗(しゆぬり)黒塗(くろぬり)等(とう)さまざまにして、製作(せいさく)殊(こと)に美々(びヾ)しきを、 扛夫(かごかき)十六人ほどにてかき、牛車(ぎうしや)はさらに見当(みあた)らず。従卒(じうそつ)は多(おほ)く騎馬(きば)に て前後(ぜんご)を警衛(けいえい)せり。さてこなた三人の道中(だうちう)は、常(つね)に何(なに)やら文字(もじ)を書(か)き たる絹(きぬ)の幟(はた)を一人に一 本(ぽん)づゝ前(まへ)に押し立(た)てゝ通(とほ)りけるが、宿駅(しゆくえき)に休息(きうそく) する時(とき)は、見物人(けんぶつにん)の群集(ぐんじゆ)夥(おびたヽし)し【「し」重複ヵ】。道中(だうちう)にても所(ところ)によりては、見物人(けんぶつにん)のため に通行(つうこう)を妨(さまた)げらるゝこと《振り仮名:屡〻|しば〳〵》なりき。然(しか)るに其(そ)の見物人(けんぶつにん)は、何(いづ)れも漂(こな) 客(た)の装束(しやうぞく)を見(み)て笑(わらひ)を含(ふく)まざるなく、特(こと)に婦人(ふじん)小児(せうに)は、声(こゑ)高(たか)らかに笑(わら)ひ詈(のヽし) 【文中のカタカナ「ツ」は促音を表していると思われ、そのまま翻刻した。】

現代語訳

【右丁】 【版心の中央部:(八十二)】 何百個となく湧きかえっていた。そのため船でこの流れを横切るときは、今にもひっくり返るのではないかと思われて、気も心も身に添わず、恐ろしいなどと言うのも愚かなほどであった。 そうしてようやく渡り終えると、見渡す限り平野で、村里が相連なり田畑が相接して、風景が最も美しかった。この平地に出てからは、急ぎもしなかったので、九十日ばかりを費やして、とある港に出た。それから船に乗って、また五十日ほどを経て、初めて清国の福州という地に到着した。 福州に着くと、前の島国とは情勢がとても異なって、目に触れる所で、日本の景色に似ているものが少なくなかった。これからは、七八十人の送り人と二三人の医師が付き添い、宿駅ごとに山海の珍味をもてなされ、日数大凡百五十日ばかりで、二月の下旬、ようやく南京の都に着いた。道すがら見えた所の城は、その数百にも余るほどで、いずれも立派で壮大であり、その 【左丁】 【版心の中央部:(八十三)】 中で天守閣と思われるものは十四五か所も見受けられた。その他楼櫓の数は至る所に多くて、一々記憶するのに暇がなかった。さて、途中にはしばしば大名の行列に行き違ったが、すべて日本とは事情が変わって、先払いということがなく、槍薙刀類は少しも携えず、種々の幟を立て笛太鼓その他の鳴物の面白い拍子で進んで行った。なかでも公子と思われる者は、すべて輿に乗っていたが、その輿は朱塗り黒塗りなど様々で、製作が特に美しく、担ぎ手十六人ほどで担ぎ、牛車はまったく見当たらなかった。従卒は多くが騎馬で前後を警護していた。さてこちら三人の道中は、常に何やら文字を書いた絹の幟を一人に一本ずつ前に押し立てて通ったが、宿駅で休息するときは、見物人の群集がおびただしかった。道中でも所によっては、見物人のために通行を妨げられることがしばしばあった。しかしその見物人は、いずれも漂流客の装束を見て笑いを含まない者はなく、特に婦人小児は、声高らかに笑い罵った。

英語訳

【Right Page】 【Page center: (82)】 four to five feet high churned up countless masses of foam. Therefore, when crossing this current by boat, it seemed we might capsize at any moment, and our spirits and hearts were not with our bodies - calling it frightening would be an understatement. After finally completing the crossing, as far as the eye could see there were plains, with villages connected to one another and rice fields adjoining each other, creating the most beautiful scenery. After emerging onto this flat land, we did not hurry, so spending about ninety days, we reached a certain port. From there we boarded a ship, and after about fifty more days, we finally arrived at a place called Fuzhou in the Qing country. Upon arriving in Fuzhou, the situation was very different from the previous island country, and among the things that met our eyes, there were not few that resembled Japanese scenery. From here, seventy to eighty escorts and two or three doctors accompanied us, we were treated to delicacies from mountain and sea at each post station, and in approximately 150 days total, we finally reached the capital of Nanjing in late February. The castles we saw along the way numbered over a hundred, all splendid and magnificent, and among 【Left Page】 【Page center: (83)】 them, what appeared to be castle keeps could be seen in fourteen or fifteen locations. Besides these, the number of towers and turrets was great everywhere, and there was no time to remember them all one by one. Now, on the road we frequently encountered the processions of great lords, but everything was different from Japan - there was no advance clearing of the way, they carried no spears or naginata, but proceeded with various banners raised and flutes, drums, and other musical instruments playing in amusing rhythms. Particularly those who appeared to be princes all rode in palanquins, and these palanquins were various - lacquered in vermillion, black, and so forth - with especially beautiful craftsmanship, carried by about sixteen bearers, with ox-carts nowhere to be seen. The retainers were mostly on horseback, providing security front and rear. Now, during our three men's journey, we constantly had silk banners with some kind of writing carried in front, one per person, and when we rested at post stations, the crowds of onlookers were enormous. Even on the road, in some places our passage was frequently obstructed by spectators. However, these spectators all looked at the castaways' clothing and could not help but laugh, and especially the women and children laughed loudly and made fun of us.