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翻刻
【右丁】
【版心の中央部:(八十六)】
けり。とうふは日本の一 丁半(ちやうはん)ほどの価(あたい)銭(ぜに)二 文(もん)づゝのよしにて、こんに
やく山芋(やまいも)等(とう)其《振り仮名:外|は【ほ】か》青物類(あをものるゐ)は日本(にほん)より下直(げちよく)なるやうなり。毛氈(もうせん)は、十 枚(まい)に
て板銀(いたぎん)一 枚(まい)の売買(ばい〳〵)値段(ねだん)のよしなり。さて日本に渡(わた)りしことありといふ
清人(しんじん)日々(ひヾ)五十人 程(ほと)づつ詰(つ)めをり、酒宴(しゆえん)を催(もよほ)し、最(もツと)も懇切(こんせつ)のもてなしをつ
くされ、殊(こと)に言語(げんぎよ)も少(すこ)しく通(つう)ずるにぞ、一時(いちじ)は異郷(ゐきよう)にある憂(うき)を忘(わす)るゝこ
ともありき。かく朝夕(てうせき)滋味(じみ)つよき食膳(しよくぜん)のみにて、後(のち)には口(くち)に飽(あ)きたれ
ば、麦飯(むぎめし)を所望(しよもう)せしに、麦(むぎ)は更(さら)に無(な)しとて蕎麦切(そばぎり)を与(あた)へられけるに、日本
のとは異(ことな)りて甚(はなは)だ太(ふと)く、且(か)つ風味(ふうみ)もあしくして、多(おほ)くは食(く)ふに堪(た)へざる
ものなりき。而(しか)して常(つね)に毛(もう)せん三 枚(まい)づゝの上(うへ)に坐(さ)せしめられ、且(か)つ毎
《振り仮名:日人参計り|まいにちにんじんばか》煎《振り仮名:じ|せん》たるを服《振り仮名:せ|ふく》しめられたる故《振り仮名:か|ゆゑ》、大に逆《振り仮名:上せ|ぎやくじよう》しかば、これ
をかくと断(ことわ)りしに、医師(いし)三人 来(きた)りて、他(た)の薬(くすり)を与(あた)へければ、《振り仮名:始|は【じ脱ヵ】》めて逆上(ぎやくじよう)も
止(や)みけり【。脱ヵ】
【左丁】
【版心の中央部:(八十七)】
十二月廿五日、役所(やくしよ)より表(をもて)白(しろ)ぬめ裏(うら)紗綾(さあや)の小袖(こそで)二(ふた)つ、白紗綾(しろさあや)五 巻(まき)、白綸(しろりん)
子(ず)五 巻(まき)白(しろ)ちりめん五 巻(まき)、飛紗綾(とびさあや)の両面羽(りやうめんは)おり一 枚(まい)、帯(おび)一筋(ひとすじ)づゝ三人へ賜(たま)
はりぬ。着物(きもの)は日本(にほん)仕立(じたて)となし、地(ぢ)はふとりの如(ごと)き品(しな)なりき。さきに、
福州(フクチウ)にて、緋(ひ)ぢりめんの綿入(わたいれ)三(みツ)つ宛(づヽ)、同(おな)しく単物(ひとへもの)三つ宛(づヽ)、猩々緋(しやう〴〵ひ)の羽(は)おり
三つ宛(づヽ)、又タイワン(════════)国(こく)にて毛(もう)せんの着物(きもの)、金(きん)らんの羽(は)おりなど賜(たま)はりけ
るが、此(これ)は皆(みな)彼地(かのち)の仕立(したて)なりしゆゑ、着用(ちやくよう)もせずして返納(へんのふ)したりしなり。
かくて、年(とし)も暮(く)れて大晦日(おほみそか)の晩(ばん)になりぬ。若(も)し家郷(かきやう)にあるならば、餅(もち)
つき煤(すヽ)はきの仕事(しごと)も終(をは)り、家内(かない)打寄(うちよ)りて旧年(きうねん)を送(おく)るべきに、幾千里(いくせんり)とい
ふことを知(し)らぬ異国(いこく)にて年(とし)を送(おく)ること、妻子(さいし)は我(われ)を待(ま)ちつゝ、如何(いか)にして
如何(いか)なる年(とし)をおくるならん定(さだ)めて立膳(たてぜん)据(す)ゑて此方(こなた)の無事(ぶじ)を祈(いの)るなる
べしとは、三人 年(とし)の暮(くれ)に臨(のぞ)みてひとしく故郷(こきやう)を思(おも)ふ心(こヽろ)なり。さて此国(このくに)
にては貸売(かしうり)のことなきにや、大晦日(おほみそか)の夜(よ)は掛取(かけと)りに歩(ある)く者(もの)とては一人(ひとり)も
【十一行目末尾~十二行下から三字目のルビが一字ずつ下にずれている】
毎日(まいにち)人参計(にんじんばか)り煎(せん)じたるを服(ふく)せしめられたる故(ゆゑ)か、大に逆上(ぎやくじよう)せしかば
【二十二行三字目「宛」のルビ「ヽ」は九十度左に回っている】
【文中のカタカナ「ツ」は促音を表していると思われ、そのまま翻刻した。】
現代語訳
【右丁】
【版心の中央部:(八十六)】
た。豆腐は日本の一丁半ほどの価値で銭二文ずつということで、こんにゃく、山芋等その他青物類は日本より安いようである。毛氈は、十枚で板銀一枚の売買値段ということである。さて日本に渡ったことがあるという清国人が日々五十人ほどずつ詰めており、酒宴を催し、最も懇切なもてなしを尽くされ、特に言葉も少し通じるので、一時は異郷にある憂いを忘れることもあった。このように朝夕滋養の強い食膳ばかりで、後には口に飽きたので、麦飯を所望したところ、麦は全くないといって蕎麦切りを与えられたが、日本のとは違ってとても太く、かつ風味も悪くて、多くは食べるに堪えないものであった。そして常に毛氈三枚ずつの上に座らせられ、かつ毎日人参ばかり煎じたものを服用させられたためか、大いに逆上したので、これを隠すと断ったところ、医師三人が来て、他の薬を与えたので、はじめて逆上も止んだ。
【左丁】
【版心の中央部:(八十七)】
十二月二十五日、役所より表白い滑らか裏紗綾の小袖二つ、白紗綾五巻、白綸子五巻、白ちりめん五巻、飛紗綾の両面羽織一枚、帯一筋ずつ三人へ賜った。着物は日本仕立てとし、地は太織のような品であった。先に、福州にて、緋ちりめんの綿入れ三つずつ、同じく単衣三つずつ、猩々緋の羽織三つずつ、また台湾国にて毛氈の着物、金襴の羽織など賜ったが、これは皆現地の仕立てであったため、着用もせずして返納したのである。
こうして、年も暮れて大晦日の晩になった。もし故郷にあるならば、餅つき煤払いの仕事も終わり、家族が寄り集まって旧年を送るべきなのに、幾千里ということも知らぬ異国で年を送ること、妻子は我々を待ちつつ、どのようにしてどのような年を送るのだろう、きっと仏壇に膳を据えてこちらの無事を祈っているに違いないと、三人は年の暮れに臨んで等しく故郷を思う心である。さてこの国では掛売りのことがないのか、大晦日の夜は集金に歩く者といっては一人も
英語訳
【Right Page】
【Page center: (86)】
Tofu was priced at two mon for about one and a half blocks' worth compared to Japan, and konjac, yam, and other vegetables seemed cheaper than in Japan. Felt mats were sold at the rate of ten pieces for one silver ingot. Chinese people who had been to Japan, about fifty per day, were stationed there, holding banquets and showing the most cordial hospitality. Since we could communicate somewhat in their language, we sometimes forgot our sorrows of being in a foreign land. With such nutritious meals morning and evening, we later grew tired of them and requested barley rice, but they said there was no barley at all and gave us soba noodles instead. These were very different from Japanese ones - much thicker and poor in flavor, mostly inedible. We were constantly made to sit on three felt mats each, and since we were made to take daily doses of ginseng decoction, we suffered greatly from overheating. When we complained about this, three doctors came and gave us other medicines, and finally the overheating stopped.
【Left Page】
【Page center: (87)】
On December 25th, the government office gave each of the three men kosode robes with white smooth exteriors and silk lining, five rolls of white silk, five rolls of white rinzu silk, five rolls of white crepe, one double-faced haori jacket of patterned silk, and one obi sash each. The clothing was tailored in Japanese style, and the fabric was of a quality like thick weaving. Previously, at Fuzhou, we had received three padded robes of scarlet crepe each, three unlined robes each, three haori jackets of bright red each, and at Taiwan we had received felt clothing and gold brocade haori jackets, but since these were all tailored in the local style, we returned them without wearing them.
Thus the year drew to a close and it became New Year's Eve night. If we were in our home village, the rice cake pounding and soot sweeping would be finished, and our families would gather to see out the old year. But here we were seeing out the year in a foreign country thousands of ri away. Our wives and children must be waiting for us - how are they spending this year? They must surely be setting out memorial offerings and praying for our safety. These were the thoughts of hometown that all three men shared as the year's end approached. Perhaps this country has no system of credit sales, for on New Year's Eve night there was not a single person