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翻刻
【右丁】
【版心の中央部:(九十六)】
居(ゐ)たり。其 夜(よ)丑三(うしみ)つの頃(ころ)か共(とも)《振り仮名:覚|おぽ【ぼヵ】》えし時(とき)、孫七(まごしち)は、百人一 首(しゆ)にて見覚(みおぼ)えた
る式子内親王(しきこないしんのう)の絵(ゑ)を見(み)る如(ごと)き上﨟(じやうらう)の、十二 一重(ひとえ)のはでやかなる装束(しやうぞく)に
て、艗(へさき)の間(ま)にあらはれ給(たま)ひ、我(われ)は小淵(こふち)に待(まつ)べしとて、岸辺(きしべ)を指(さ)して飛(と)び去(さ)
り賜(たま)ふに、異香(ゐきやう)四 方(はう)に薫(くん)じて夢(ゆめ)覚(さめ)たり。孫七 不思議(ふしぎ)の思(おもひ)をなし、何事(なにごと)の
瑞相(ずゐしやう)にやと、他人(たにん)へも話(はな)し聞(き)かせんと思(おも)ひしかども、今年(ことし)十九 歳(さい)にて、あ
るが中(うち)の若輩(じやくはい)なれば、なまじひに言(い)ひ出(い)でゝ嘲哢(てうろう)されんも恥(はづ)かしくと
思(おも)ひて、其(そ)の時(とき)は口外(こうぐわい)に出(いだ)さずして止(や)みぬ。扨(さて)箱館(はこだて)より江戸(えど)に廻(まわ)るに、
船中(せんちう)凡(およそ)三百 余里(より)、能(よ)く日和(ひより)も折合(をりあひ)ければ、十月十五日 朝(あさ)六(む)ツ時[《割書:今の午前|六時》]
に小淵(こふち)の湊(みなと)を《振り仮名:出帆|しゆツぽ【ぱヵ】ん》して、十 余里(より)も走(はし)りける程(ほど)に、風(かぜ)すこし吹(ふ)き出(い)でけれ
ば、帚木(はヽきヾ)といふ浦(うら)に漕(こ)き寄(よ)せんと楫(かぢ)を向(む)けたり。こゝは、小淵湊(こふちみなと)より陸(りく)
路(ろ)一 里(り)計(ばかり)の処(ところ)にて、小淵の浦(うら)に入(い)らんには、金華山(きんくわざん)を間近(まぢか)く東(ひがし)に見(み)て行(ゆ)
きすぐるなり。金華山(きんくわざん)は廻(まは)り五 里(り)計(ばかり)の島(しま)にして、陸地(をか)を距(さ)ること三 里(り)
【左丁】
【版心の中央部:(九十七)】
計(はか)りの所(ところ)に聳(そび)えたり。船(ふね)より見(み)れば、金銀(きん〴〵)の砂(すな)を敷(しく)かと疑(うたが)はれ、麓(ふもと)の社(やしろ)
は見(み)え渡(わた)りて美麗(びれい)を尽(つく)したる結構(けツこう)なり。かくて十月十九日 夜(よる)の内(うち)に
日和(ひより)を見合(みあは)せしに、風(かぜ)やゝ止(や)みければ、朝(あさ)七ツ時[《割書:今の午前|四時》]より帚木の浦(うら)
を出帆(しゆツぱん)して奥州(おうしう)と常陸(ひたち)の国境(くにざかひ)なる塩屋(しほや)の岬(みさき)といふ所(ところ)まで五十 里余(りよ)も
走(はし)りける。時(とき)にまた風(かぜ)烈(はげ)しくなりて、空(そら)の色(いろ)おそろしく、海(うみ)の面(おもて)もたヾ
ならぬ気色(けしき)なれば、皆々(みな〳〵)相談(さうだん)して、然(しか)るべき処(ところ)に船(ふね)を繋(つな)ぎて日和(ひより)を待(また)ん
と云(いひ)けるに、船頭(せんどう)十右衛門(じうゑもん)は、今年(ことし)十八 歳(さい)の若者(わかもの)なれば、とかういふべき
仔細(しさい)もなきに、親分(おやぶん)の仁兵衛(にへゑ)が言(い)ふやうは、此(こ)の風(かぜ)後(のち)は東風(こち)に直(なほ)り、次第(しだい)
に和(やは)らがんこと疑(うたがひ)なし、唯(たヾ)しばらくこゝに碇(いかり)をおろして待(ま)つべし。と
いへり。楫取(かぢとり)の新七(しんしち)は、之(これ)を心得難(こヽろえがた)くや思(おも)ひけん、諸国(しよこく)の廻船(くわいせん)四十 余艘(よさう)
日和(ひより)を伺(うかヾ)ひ集(あつま)りたる隣(となり)の船(ふね)に呼(よば)りて、此風(このかぜ)いかヾ成(な)るべきと尋(たづ)ねけれ
ば、《振り仮名:先方|せん■【ばヵぱヵ】う》より答(こた)へけるは、何(いづ)れともわきがたし、若(も)し夜(よ)に入(い)り風(かぜ)悪(あ)しくて
【文中のカタカナ「ツ」は促音を表している(十行下から二字目、二十行下から八字目は数を表している)と思われ、そのまま翻刻した。】
【十、二十行目の[ ]は亀甲括弧】
現代語訳
【右丁】
【版心の中央部:(九十六)】
いた。その夜丑三つ(午前2時頃)と覚える時、孫七は、百人一首で見覚えのある式子内親王の絵を見るような上品な女性が、十二単の華やかな装束で船首の間に現れ給い、「我は小淵に待つべし」と言って、岸辺を指して飛び去り給うのを見て、異香が四方に薫じて夢から覚めた。孫七は不思議に思い、何事の吉兆だろうかと、他人にも話して聞かせようと思ったけれども、今年十九歳で、その中でも若輩なので、下手に言い出して嘲笑されるのも恥ずかしいと思って、その時は口外せずに止めた。さて箱館から江戸に回るのに、船中およそ三百余里、よく日和も良かったので、十月十五日朝六つ時(今の午前6時)に小淵の港を出帆して、十余里も航行したところで、風が少し吹き出したので、帚木という浦に漕ぎ寄せようと舵を向けた。ここは、小淵港から陸路一里ばかりのところで、小淵の浦に入るには、金華山を間近に東に見て行き過ぎるのである。金華山は周囲五里ばかりの島で、陸地から三里
【左丁】
【版心の中央部:(九十七)】
ばかりのところにそびえている。船から見れば、金銀の砂を敷いたかと疑われ、麓の社が見え渡って美麗を尽くした立派なものである。こうして十月十九日夜のうちに日和を見合わせたところ、風がやや止んだので、朝七つ時(今の午前4時)より帚木の浦を出帆して奥州と常陸の国境である塩屋の岬というところまで五十里余りも航行した。その時また風が激しくなって、空の色が恐ろしく、海の面も尋常でない様子なので、皆々相談して、しかるべきところに船を繋いで日和を待とうと言ったところ、船頭の十右衛門は、今年十八歳の若者なので、とやかく言うべき理由もないが、親分の仁兵衛が言うには、「この風は後で東風に変わり、次第に穏やかになることは疑いない。ただしばらくここに錨を下ろして待つべきだ」と言った。舵取りの新七は、これを理解し難く思ったのか、諸国の廻船四十余艘が日和をうかがい集まっている隣の船に呼びかけて、「この風はどうなるだろうか」と尋ねたところ、先方から答えるには、「どちらとも判断しがたい。もし夜に入って風が悪くて
英語訳
【Right Page】
【Page center: (96)】
They waited there. That night around the hour of the Ox (about 2 AM), Magoshichi had a dream in which an elegant court lady appeared, resembling the image of Princess Shikishi that he had seen in the Hyakunin Isshu, wearing magnificent twelve-layered court robes at the bow of the ship. She said "I shall wait at Kobuchi" and pointed toward the shore before flying away, and he awoke to a strange fragrance pervading all directions. Magoshichi found this mysterious and wondered what auspicious sign this might be, thinking to tell others about it, but since he was only nineteen years old and among the youngest of the crew, he thought it would be embarrassing to speak carelessly and be ridiculed, so he kept it to himself at the time. Now, traveling from Hakodate to Edo by sea was about three hundred ri, and the weather was favorable, so on the morning of October 15th at the sixth hour (6 AM today), they departed from Kobuchi port. After traveling about ten ri, the wind began to pick up a little, so they turned the rudder toward a bay called Hahakigi. This place was about one ri by land from Kobuchi port, and to enter Kobuchi bay, one would pass close by Kinkazan to the east. Kinkazan is an island about five ri in circumference, rising about three ri
【Left Page】
【Page center: (97)】
from the mainland. Seen from the ship, it appeared as if gold and silver sand had been spread, and the shrine at its base was visible in all its magnificent beauty. Thus on the night of October 19th, when they observed the weather, the wind had somewhat subsided, so at the seventh hour in the morning (4 AM today) they departed from Hahakigi bay and sailed over fifty ri to a place called Shioya Cape at the border between Ōshū and Hitachi provinces. Then the wind became fierce again, the sky looked ominous, and the sea's surface showed an unusual appearance, so everyone consulted together and said they should moor the ship at a suitable place and wait for better weather. The ship's captain Jūemon, being only eighteen years old this year, had no particular reason to object, but his senior Nihee said, "This wind will later turn to an east wind and gradually calm down without doubt. We should just drop anchor here for a while and wait." The helmsman Shinshichi perhaps found this hard to accept, so he called out to a neighboring ship among the forty-odd vessels from various provinces that had gathered waiting for favorable weather, asking "What do you think this wind will do?" The reply came back: "It's hard to say either way. If the wind worsens after nightfall..."