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【右丁】
【版心の中央部:(百三十六)】
す油(あぶら)は、すべて家々(いへ〳〵)のめぐりに生(お)ひたる棕櫚(しゆうろ)のやうなる木(き)の実(み)をしぼ
りて取(と)るなり。其の油(あぶら)一 升(しやう)の価(あたひ)およそ八十 文(もん)。又カバヤとて燕(つばめ)に似(に)
たる鳥(とり)の巣(す)の、白(しろ)くて猿(さる)の腰(こし)かけに似(に)たるが、窪(くぼ)き内(うち)には黒(くろ)き《振り仮名:羽|□【ばヵぱヵ】ね》などの
付(つい)たるを薬品(やくひん)にもやなるらん、和蘭陀(オランダ)より入銀(いれぎん)して壱 斤(きん)銀(ぎん)八拾 匁(め)ぐら
いに売(う)り渡(わた)す。其の巣(す)は岩窟(がんくつ)の内(うち)いと闇(くら)き所(ところ)にあるを、火(ひ)と灯(とも)し入(い)り
て是(これ)を取(と)るといふ。然(しか)れども国主(こくしゆ)より猥(みだ)りに取(と)ることを制禁(せいきん)あつて、
役人(やくにん)よりこれを改(あらた)む。或年(あるとし)一人の黒奴(くろんぼ)窃(ひそか)に之(これ)を取(と)り、孫七が近隣(きんりん)の商(しやう)
家(か)に売払(うりはら)ひに来(きた)りける。《振り仮名:折節|をりふり【しヵ】》たま〳〵役人(やくにん)其の前(まへ)を通(とほ)り懸(かヽ)り、右(みぎ)の売(うり)
物(もの)を認(みと)めて其 家内(かない)に立入(たちい)り、件(くだん)の黒奴(くろんぼ)を捕(とら)へてきびしく詮議(せんぎ)せしに、黒(くろん)
奴(ぼ)はさま〴〵偽(いつは)りて其(そ)の罪(つみ)を逃(のが)れんとせしかば、役人(やくにん)之を詰問(きつもん)するこ
といよ〳〵厳酷(げんこく)なりし程(ほど)に黒奴(くろんぼ)も今(いま)は逃(のが)れ難(がた)しとや思(おも)ひけん、俄(にわか)に役(やく)
人(にん)の帯(たい)せる剣(けん)を奪(うば)ひとり、二人の役人(やくにん)に重傷(おもて)をおはせて逃(に)げ去(さ)れり。
【左丁】
【版心の中央部:(百三十七)】
其(そ)の時(とき)孫七は其(そ)の家(いへ)の門口(かとぐち)に彳(たヽ)ずみけるが、奥(おく)の方(かた)より抜身(ぬきみ)を持(も)ちて
走(はし)り出(い)づるものあるにぞ、いかなる事(こと)やらんと内(うち)に入(い)らんとするに、一
人の腹(はら)を押(おさ)へて黒奴(くろんぼ)を追(お)ひかけ来(きた)るものありしが、やがて門口(かどぐち)にて倒(たふ)
れたり。其(そ)の足(あし)より血(ち)の流(なが)るゝ事(こと)夥(おびたヾ)しければ、孫七は之を見(み)て打驚(うちおどろ)き、
暫(しば)しためらふうちに、又も一人(ひとり)追(おひ)かけ来(きた)ると見(み)えけるが、二 町(ちやう)計(ばかり)も走(はし)り
て是(これ)も同(おな)しく斃(たふ)れにけり。兎角(とかく)する程(ほど)に、役人(やくにん)と覚(おぼ)しき人々(ひと〴〵)追々(おひ〳〵)此(こ)の
家(いへ)に馳(は)せ集(あつま)りしが、やがて鎗(やり)よ鉾(ほこ)よ鉄炮(てツぱう)よと、得物(えもの)〳〵を携(たづさ)へ出(い)で、川尻(かはじり)
浜手(はまて)を探(さが)すもあり、又 山手(やまのて)に入(い)るあり、四 方(ぱう)八 方(ぱう)に手(て)をわけて、其 混雑(こんざつ)お
びたヾし。孫七こは面白(おもしろ)し行(ゆ)きて見(み)んと、追手(おツて)の後(しりへ)に従(したが)ひ行(ゆ)きしに、暫(しば)
しが程(ほど)は其(ぞ)の行方(ゆくゑ)更(さら)にわからざりしが、猶(なほ)深(ふか)く山中にわけ入(い)り見(み)れば、
黒奴(くろんぼ)はとある大木(たいぼく)の梢(こずゑ)にのぼり、息(いき)をつめてぞ忍(しの)び居(ゐ)たりける。追手(おツて)
は其(そ)の木(き)に登(のぼ)りて捕(とら)へんとすれど、数十丈(すじうじやう)の大木(たいぼく)にて、たやすく登(のぼ)りが
現代語訳
【右丁】
【版心の中央部:(百三十六)】
す油は、すべて家々の周りに生えた棕櫚のような木の実を搾って取るのである。その油一升の価格はおよそ八十文である。またカバヤといって燕に似た鳥の巣で、白くて猿の腰掛けに似ていて、窪んだ内側には黒い羽根などが付いているものを薬品にもするのであろう、オランダより銀を入れて一斤銀八十匁ぐらいで売り渡す。その巣は岩窟の内のとても暗い所にあるのを、火を灯して入ってこれを取るという。しかし国主より勝手に取ることを制禁があって、役人よりこれを取り締まっている。ある年、一人の黒人が密かにこれを取り、孫七の近隣の商家に売りに来た。折しもたまたま役人がその前を通りかかり、右の売り物を見つけてその家の中に立ち入り、件の黒人を捕らえて厳しく取り調べたところ、黒人はさまざまに嘘をついてその罪を逃れようとしたので、役人がこれを詰問することがいよいよ厳酷になったために、黒人ももはや逃れ難いと思ったのか、俄かに役人の帯びている剣を奪い取り、二人の役人に重傷を負わせて逃げ去った。
【左丁】
【版心の中央部:(百三十七)】
その時孫七はその家の門口に立っていたが、奥の方より抜き身を持って走り出てくる者があるので、いったい何事かと内に入ろうとすると、一人が腹を押さえて黒人を追いかけて来る者があったが、やがて門口で倒れた。その足から血の流れることが夥しいので、孫七はこれを見て驚き、しばしためらっているうちに、また一人追いかけて来ると見えたが、二町ばかりも走ってこれも同じく倒れた。あれこれするうちに、役人と思われる人々が次々とこの家に駆けつけたが、やがて「槍よ、鉾よ、鉄砲よ」と、武器をそれぞれ携えて出て、川尻・浜手を探す者もあり、また山手に入る者もあり、四方八方に手を分けて、その混雑は甚だしかった。孫七は「これは面白い、行って見よう」と、追手の後に従って行ったが、しばらくの間はその行方が全くわからなかったが、なお深く山中に分け入って見れば、黒人はとある大木の梢に登り、息を詰めて隠れていた。追手はその木に登って捕らえようとするが、数十丈の大木で、容易に登り
英語訳
【Right Page】
【Center of the spine: (136)】
The oil for lighting is obtained by pressing the nuts of palm-like trees that grow around all the houses. The price of one sho of that oil is approximately eighty mon. There is also something called "kabaya" - nests of birds resembling swallows, white and resembling monkey seats, with black feathers attached to the hollow interior. These are probably used as medicine, and are sold for about eighty monme of silver per kin through Dutch silver imports. These nests are found in very dark places within rock caves, and people enter with fire and lights to collect them. However, the ruler has prohibited taking them arbitrarily, and officials regulate this. One year, a black man secretly took some and came to sell them to a merchant house near Magoshichi's place. It happened that an official was passing by and noticed the goods for sale, entered the house, captured the black man, and interrogated him severely. The black man told various lies trying to escape his crime, so the official's questioning became increasingly harsh. Perhaps thinking he could no longer escape, the black man suddenly seized the sword the official was wearing, seriously wounded two officials, and fled.
【Left Page】
【Center of the spine: (137)】
At that time, Magoshichi was standing at the gate of that house when someone came running out from the back with a drawn sword, so wondering what was happening, he was about to enter when one man came chasing the black man while holding his belly, but soon collapsed at the gate. Blood flowed profusely from his leg, so Magoshichi was startled to see this and hesitated for a while. Then another person appeared to be chasing, but after running about two cho, he too collapsed in the same way. Meanwhile, people who appeared to be officials came rushing to this house one after another, and soon carrying weapons - "spears! halberds! guns!" - some went searching the riverside and beach areas, others entered the mountains, dividing forces in all directions with tremendous commotion. Thinking "This is interesting, I'll go and see," Magoshichi followed behind the pursuers. For a while their whereabouts were completely unknown, but going deeper into the mountains, he saw that the black man had climbed to the top of a large tree and was hiding there, holding his breath. The pursuers tried to climb the tree to capture him, but it was a tree of several dozen jo in height, not easy to climb.