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切支丹御退治記 49巻. [8] - 翻刻

切支丹御退治記 49巻. [8] - ページ 24

ページ: 24

翻刻

 下曽根三十郎能是を知連り 別本細川譜曰二月二十七日未刻総兵俄攻原城  忠利光利兵即時乗入三丸斬賊居多直入二丸  縦火焼凶斬首十七級殺亦太多時忠利立花飛  騨守宗茂馳書於川勝広綱佐々権兵衛告之忠  利兵及晡時自本丸海浜進至西口薄城屏欲乗  本城賊徒竭力殊死戦防之我兵為之死傷者不  少然余兵気不屈弥逼進忠利光利与信綱氏鉄  馬場重利在軍後而察死傷欲少退兵時忠利先  駆長岡奥長其子寄之乎兵自海浜角急進入城  益田弥一右衛門先登益田才助縦火歩士都甲  太兵衛後藤権右衛門池永源太夫同益田共進  岡本伝十郎継之歩卒山内五兵衛平井甚兵衛  岩尾牧右衛門斎藤少蔵共放火速水一郎兵衛  津川四郎右衛門河喜多九太夫山田新九郎等  皆継進《割書:皆忠利|家士》火延及数軒猛焔觸人不能敢進  忠利兵半入本丸而揚九曜紋旌旗旦建大柵忠  利光利寄書於川勝広綱佐々権兵衛日根野織  部告屠城其夜備兵於本丸 細川家島原軍記曰二月廿七日未之刻原之城俄

現代語訳

下曽根三十郎がこれをよく知っていた。 別本の細川譜によれば、二月二十七日未の刻に、総兵が俄かに原城を攻めた。忠利と光利の兵は即時に三の丸に乗り入り、賊を斬ること多く、直ちに二の丸に入って縦火し、凶賊を焼き斬首十七級、殺した者も甚だ多かった。この時、忠利は立花飛騨守宗茂と共に川勝広綱と佐々権兵衛に書を送って知らせた。忠利の兵は申の刻になって、本丸から海浜へ進み、西口に至って城に迫り、本城に乗り込もうとした。賊徒は力を尽くして死を覚悟して戦い防いだので、我が軍の死傷者も少なくなかった。しかし残りの兵の士気は屈せず、ますます迫り進んだ。忠利と光利は氏鉄、馬場重利と共に軍の後方にいて死傷を察し、少し兵を退かせようとした時、忠利が先駆けした。長岡奥長とその子が寄せて、兵を海浜の角から急いで進めて城に入った。 益田弥一右衛門が先登し、益田才助が縦火した。歩士の都甲太兵衛、後藤権右衛門、池永源太夫も益田と共に進み、岡本伝十郎がこれに続いた。歩卒の山内五兵衛、平井甚兵衛、岩尾牧右衛門、斎藤少蔵も共に放火し、速水一郎兵衛、津川四郎右衛門、河喜多九太夫、山田新九郎等も皆続いて進んだ《割書:皆忠利の家士》。火は数軒に延び、猛火が人に触れて敢えて進むことができなくなった。忠利の兵は半ば本丸に入って九曜紋の旌旗を揚げ、また大柵を建てた。忠利と光利は川勝広綱、佐々権兵衛、日根野織部に書を寄せて城の屠城を告げた。その夜、本丸に兵を備えた。 細川家島原軍記によれば、二月二十七日未の刻に原の城が俄かに