琉球・沖縄の世界を翻刻する

コレクション: ハワイ大学所蔵 阪巻・宝玲文庫 vol. 1

琉球入貢紀略 - 翻刻

琉球入貢紀略 - ページ 11

ページ: 11

翻刻

りしことありしにやあらん、しからざれば大業(だいげふ)の初(はじめ)、吾(わが) 邦(くに)の人(ひと)の、隋人(ずゐひと)に答(こた)へし詞(ことば)にかなひがたし、かゝれば琉(りう) 球(きう)の名(な)は、史(し)にしるさずといへども、推古(すゐこ)天皇(てんわう)の御宇(ぎよう)よ り、はやく已(すで)に彼国(かのくに)より朝献(てうけん)ありしこと知(し)るべし、  按(あん)ずるに、推古(すゐこ)天皇(てんわう)二十四年(にじふよねん)掖玖(やく)の人(ひと)来(きた)るよし見  えたり、《割書:史に掖玖(やく)、また邪久(やく)、益久(やく)、夜句(やく)、益救(やく)なども|かけるは、文字(もじ)の異(こと)なるまでにて同(おな)じことなり、》南島(なんたう)  の朝献(てうけん)は、この時(とき)より始(はじま)れるならん、この掖玖(やく)といへ  るは、即(すなはち)琉球国(りうきうこく)のことなりといへり、又(また)天武(てんむ)天皇(てんわう)十(じふ)  年(ねん)、多祢島(たねじま)へ使人(つかひ)をつかはして、その国(くに)の図(づ)を貢(みつが)し  むることあり、おもふにこの多祢島(たねじま)といふも、亦(また)琉球(りうきう)  のことなり、南海(なんかい)の島々(しま〴〵)の名(な)、いまだ詳(つまびらか)ならざるに  よりて、琉球(りうきう)へ通(かよ)ふ船路(ふなぢ)この多祢島(たねじま)を経(へ)て、往来(わうらい)  するをもつて、多祢島(たねじま)とも呼(よ)べるならん、《割書:この多祢|島といへ》  《割書:るは今云(いまいふ)|種(たね)が島(しま)なり》後(のち)元明(げんみやう)天皇(てんわう)和銅(わどう)七年(しちねん)、南海(なんかい)の諸島(しよたう)みな内(だい)  附(ふ)すと見えたり、《割書:南島|志》   琉球使(りうきうし)来(きた)れる 琉球(りうきう)は掖玖(やく)の島人(しまびと)とともに、推古(すゐてん)【ママ】天皇(てんわう)の御宇(ぎよう)より 来(きた)りけんが、はやく朝貢(てうこう)怠(おこた)りしなるべし、かくてその

現代語訳

ったことがあったのであろうか。そうでなければ、大業の初めに我が国の人が隋の人に答えた言葉と合致しがたい。このように琉球の名は史書に記されていないとはいえ、推古天皇の御代からすでに早くもその国からの朝献があったことを知るべきである。 考察するに、推古天皇二十四年に屋久の人が来たことが見える。《割注:史書に屋久、また邪久、益久、夜句、益救などと書かれるのは、文字が異なるだけで同じことである。》南島の朝献は、この時より始まったのであろう。この屋久というのは、すなわち琉球国のことであると言われている。また天武天皇十年に、多祢島へ使者を派遣して、その国の地図を貢進させることがあった。思うにこの多祢島というのも、また琉球のことである。南海の島々の名がまだ詳しく分からないために、琉球へ通う船路がこの多祢島を経て往来するので、多祢島とも呼んだのであろう。《割注:この多祢島というのは今いう種子島のことである。》後に元明天皇和銅七年に、南海の諸島がみな朝廷に帰属したと見える。《割注:南島志》 琉球使が来朝したこと 琉球は屋久の島人とともに、推古天皇の御代より来朝していたであろうが、早くに朝貢を怠るようになったのであろう。そうして

英語訳

had come? If not, it would be difficult to reconcile with the words that people from our country answered to the Sui people at the beginning of the Daye era. Thus, although the name Ryukyu is not recorded in the historical records, we should know that there were already tributes from that country from the reign of Empress Suiko. Upon examination, it appears that people from Yaku came in the 24th year of Empress Suiko's reign. [Marginal note: The various writings in historical records such as Yaku, Yakyaku, Yakyū, Yakyū, and Yakyū are merely different characters for the same thing.] The tributes from the southern islands probably began at this time. This Yaku is said to refer to the Ryukyu Kingdom. Also, in the 10th year of Emperor Tenmu's reign, an envoy was sent to Tanejima to have that country present maps. I believe this Tanejima also refers to Ryukyu. Because the names of the islands in the southern seas were not yet clear, and since the sea routes to Ryukyu passed through this Tanejima for travel back and forth, it was probably also called Tanejima. [Marginal note: This Tanejima refers to what is now called Tanegashima.] Later, in the 7th year of Wadō under Empress Genmei, it appears that all the islands of the southern seas submitted to imperial authority. [Marginal note: Nantōshi (Southern Islands Record)] The Coming of Ryukyu Envoys Ryukyu, together with the islanders of Yaku, had probably been coming since the reign of Empress Suiko, but they likely neglected their tributary obligations early on. Thus