琉球・沖縄の世界を翻刻する

コレクション: ハワイ大学所蔵 阪巻・宝玲文庫 vol. 1

琉球入貢紀略 - 翻刻

琉球入貢紀略 - ページ 12

ページ: 12

翻刻

国(くに)と往来(わうらい)なければ、たま〳〵記載(きさい)に見えたるも、みな 県聞(けんぶん)【左注「きゝつたへ」】臆度(おくど)【左注「すゐりやう」】のみにて、たしかなることなきはその故(ゆゑ)なり とおもはる、その国(くに)もまたはるかの島国(しまぐに)にて、いづれ の国(くに)の附庸(ふよう)にもあらず通信(つうしん)もせざりしが、明(みん)の洪(こう) 武(ぶ)年間(ねんかん)、琉球(りうきう)は察度王(さつどわう)の時(とき)にあたりて冊封(さくほう)とて唐(もろ) 土(こし)より中山王(ちうざんわう)に封(ほう)ぜられて、彼国(かのくに)へも往来(わうらい)して、制(せい) 度(ど)文物(ぶんぶつ)すべて、唐土(もろこし)にならひてぞありける、明(みん)の宣(せん) 徳(とく)七年(しちねん)に、宣宗内官(せんそうないくわん)紫山(さいざん)といへる臣(しん)に命(めい)して、勅(ちよく) 書(しよ)を齎(もた)らしめ琉球国(りうきうこく)につかはし、中山王(ちうざんわう)より人(ひと)をし て、吾邦(わがくに)に通信(つうしん)せしむ、この宣徳(せんとく)七(ち)【ママ】年(ねん)は、吾邦(わがくに)の永(えい) 享(きやう)四年(よねん)にあたれり、これによりて考(かんが)ふるに、上古(しやうこ)よ りはやく往来(わうらい)絶(た)えて、後(のち)明(みん)宣宗(せんそう)のために、我邦(わがくに)へ使(つかひ) せしは、はるかに年(とし)を歴(へ)て、再(ふたゝ)び吾邦(わがくに)へ琉球使(りうきうし)の来(きた)れ る始(はじ)めなるべし、これより後(のち)も、明(みん)の正統(しやうたう)元年(ぐわんねん)英宗(えいそう)琉(りう) 球(きう)の貢使(こうし)伍是堅(ごしけん)をして、回勅(くわいちよく)を齎(もた)らして、日本国(にほんこく) 王(わう)源義教(げんぎけう)に諭(ゆ)すといひ、《割書:永享(えいきやう)八年|のことなり》嘉靖(かせい)三年(さんねん)、琉球(りうきう)の 長吏(ちやうり)【史】金良(きんりやう)のをして、日本国王(にほんこくわう)に転諭(てんゆ)す《割書:大永(だいえい)四年の|ことなり ○中》 《割書:山伝信録、琉|球国志略》といへることあれば、明(みん)の時(とき)より吾邦(わがくに)へ書(しよ)を贈(おく)

現代語訳

国との往来がなかったので、たまたま記録に見えるものも、みな伝聞や推測によるもので、確かなことがないのはその故であると思われる。その国もまた遥かな島国で、どこの国の属国でもなく、通信もしていなかった。しかし、明の洪武年間に、琉球は察度王の時代にあたって冊封により中国から中山王に封じられ、中国へも往来して、制度・文物すべてを中国に倣うようになった。明の宣徳七年に、宣宗が内官の柴山という臣下に命じて勅書を持参させ琉球国に派遣し、中山王から人を派遣して我が国に通信させた。この宣徳七年は我が国の永享四年にあたる。これによって考えるに、上古より早くに往来が絶えて、後に明の宣宗のために我が国へ使者を派遣したのは、長い年月を経て、再び我が国へ琉球使が来朝した始まりであろう。これより後も、明の正統元年に英宗が琉球の貢使伍是堅をして回勅を持参して日本国王源義教に諭したといい、《割注:永享八年のことである》嘉靖三年に、琉球の長吏金良をして日本国王に転諭した《割注:大永四年のことである ○中山伝信録、琉球国志略》ということがあるので、明の時代より我が国へ書を贈り

英語訳

There was no regular intercourse with that country, so even those records that occasionally appear are all based on hearsay and speculation, and the reason there are no reliable facts is thought to be due to this. That country was also a distant island nation that was not a vassal of any country and had no diplomatic communications. However, during the Hongwu period of the Ming Dynasty, during the time of King Satto, Ryukyu was invested as the King of Chuzan by China through the investiture system, and began traveling to China and adopting all Chinese institutions and culture. In the seventh year of Xuande under Emperor Xuanzong of Ming, the emperor commanded his eunuch official Zaizan to carry an imperial edict and dispatched him to the Ryukyu Kingdom, and the King of Chuzan sent people to communicate with our country. This seventh year of Xuande corresponds to the fourth year of Eikyō in our country. Considering this, regular intercourse had ceased early on since ancient times, and the later dispatch of envoys to our country at the behest of Emperor Xuanzong of Ming was, after many years had passed, the beginning of Ryukyu envoys coming to our country again. Even after this, in the first year of Zhengtong, Emperor Yingzong had the Ryukyu tribute envoy Wu Shijian carry a reply edict to admonish King Minamoto no Yoshinori of Japan, [marginal note: this was in the eighth year of Eikyō] and in the third year of Jiajing, the Ryukyu magistrate Jin Liang was made to relay instructions to the King of Japan [marginal note: this was in the fourth year of Daiei ○ Chuzan denshinroku, Ryukyu kokushi ryaku]. Since there are such records, letters were sent to our country from the Ming period