翻刻
加藤
肥後守藤原清正は初の名虎の助生国《場所:尾張》の人豊臣
太閤の外戚につきてしたしかりき《割書:一説に御堂殿の御末中納|言忠家の二男正家の》
《割書:十代の後に二郎清方か子因幡守清信《場所:尾州》《場所:犬山》に住し斎藤|道三に属す 織田殿 戦の時うち死す その子弾正清忠 同 国|《場所:愛智郡中村》に住し 三十八歳にて死す三歳の幼子あり虎之助|といふこれ清正也 母は秀吉の母と 従弟なり 其頃秀吉 《場所:江州》|《場所:長浜》にて五万石を 領し給ひしに虎之助五才の時母の場所:長浜》にゐ|てゆきてたのみしかは秀吉の母の許にて人となり十五才にて》
《割書:元服し百七十石の所領を|秀吉より給ひしといふ》 天正九年六月《場所:因幡国鳥取》
の堀の物見し城より出し兵とも弓取て射すくめ
太刀打して高名す 《割書:此時清正十九才所領の地百石を加へ|られしといふ也さしは清正の卒せし年|四十九にてやあるらん世の伝ふる ところのこときは 五十一歳にし|て慶長十六年に卒せしなりもし後の説のことく》
現代語訳
加藤
肥後守藤原清正は初めの名を虎之助といい、尾張国の人で、豊臣太閤の外戚につながりがあって親しかった。【割書:一説には御堂殿の御末裔で中納言忠家の二男正家の】【割書:十代後の二郎清方の子である因幡守清信は尾州犬山に住み斎藤道三に属していた。織田殿との戦いの時討ち死にした。その子弾正清忠は同国愛知郡中村に住み、三十八歳で死去した。三歳の幼子があり虎之助といった。これが清正である。母は秀吉の母と従姉妹の関係にあった。その頃秀吉は江州長浜で五万石を領していたが、虎之助五歳の時、母が長浜にいって頼んだので、秀吉の母の許で人となり、十五歳で】【割書:元服し、百七十石の所領を秀吉より給わったという】
天正九年六月、因幡国鳥取の城攻めの際、堀の物見から城より出てきた兵どもを弓で射すくめ、太刀打ちして高名を立てた。【割書:この時清正十九歳、所領に百石を加えられたという。さて清正の卒した年は四十九歳であろうか。世に伝わるところでは五十一歳で慶長十六年に卒したとある。もし後の説の通りなら】