翻刻
【右丁】
《割書:し所彼国に伝へし所ふたつの|あいた小しくあやまれるにや》為朝本国に帰りて後は
其母に従ひて浦添の里にあり成長するにしたかひて
その人となりよのつねにこへすぐれしかは十五歳に
して国人の為に推尊ひられて浦添の按司となり廾二
歳にして終に此国の王とはなりたり《割書:今川伊予入道了|俊がしるされし》
《割書:ものに尊氏将軍の先祖足利の義兼は実は為朝の子な
りしを義家朝臣の孫足利陸奥の判官義康襁褓の上よ
り養ひき世に憚りて人にかくしたれば終に知る人な
し頼 右大将には殊更近付給ひしかはなを世に憚り
てむなしき物狂ひになり給ひて其代は無為に過給ひ
し細川畠山などは義兼の下より分れたるにやと見へ
たり此義兼身の長八尺余にて力も人に勝れたりしと
いふ 舜天王の事も思ひはかられぬもししからは後国
王は本朝の足利細川畠山等の流の諸家
の源氏と同しく為朝の後と見へたり》
【左丁】
逆臣利勇を討し諸按司の推奉に因て即位し功を賞し
罪を罰す民安く国豊なり在位五十一年寿七十二にて
斃す《割書:宋理宗嘉煕元年本朝|四條院嘉禎三年》
舜馬順煕《割書:舜天第一子在位十一年寿六十四にて斃す宋|淳祐八年 本朝後深草院宝治二年》
義本《割書:舜馬順煕第一子在位十一年寿五十四にして英祖に|譲る宋理宗宝祐七年 本朝後深草院正元元年》
義本嗣位の明年国中大に餓次年疾疫人民半失す君歎
息し不徳誰にか譲らんと問群臣天孫氏の後裔恵祖の
世嫡英祖を挙く君悦て召て国政に試む七年にして義
本位を英祖に譲て北山に隠る
舜天至義本凡三伝共七十三年
現代語訳
【右丁】
《割書:した所と彼国に伝えた所の二つが|少し食い違って誤りがあるのか》為朝が本国に帰った後は、その母に従って浦添の里にいた。成長するにしたがって、その人となりが世の常を超えて優れていたので、十五歳で国人によって推戴されて浦添按司となり、二十二歳でついにこの国の王となった。《割書:今川伊予入道了|俊が記された》
《割書:ものに「尊氏将軍の先祖足利義兼は実は為朝の子で
あったが、義家朝臣の孫足利陸奥判官義康が赤子の時
より養育した。世間を憚って人に隠したので、ついに知
る人がいない。頼朝右大将には特に近づいたので、なお
世間を憚って空しく物狂いのふりをして、その時代を
無為に過ごした。細川・畠山などは義兼の系統から分
かれたのかと思われる。この義兼は身長八尺余りで、
力も人に勝れていたという。舜天王のことも思い量ら
れる。もしそうならば、後の国王は本朝の足利・細川・
畠山等の流れの諸家の源氏と同じく為朝の後裔と思わ
れる》
【左丁】
逆臣利勇を討ち、諸按司の推戴により即位し、功を賞し罪を罰した。民は安らかで国は豊かであった。在位五十一年、寿命七十二歳で薨じた。《割書:宋理宗嘉熙元年、本朝|四条院嘉禎三年》
舜馬順熙《割書:舜天第一子、在位十一年、寿命六十四歳で薨じた。宋|淳祐八年 本朝後深草院宝治二年》
義本《割書:舜馬順熙第一子、在位十一年、寿命五十四歳で英祖に|譲った。宋理宗宝祐七年 本朝後深草院正元元年》
義本が即位した翌年、国中が大いに飢饉となり、次年には疫病が流行して人民の半数を失った。君主は歎息し、不徳の自分は誰に譲位すべきかと問うと、群臣は天孫氏の後裔である恵祖の世嫡英祖を推挙した。君主は悦んで召し出して国政に試用した。七年後、義本は位を英祖に譲って北山に隠居した。
舜天から義本まで合計三代、共に七十三年間であった。