翻刻
【右丁】
茲経大によろこひいそき兵船をそろへ軍勢を催ほし
馬物具兵粮秣とりのせて南をさしてをしいたす
すてに彼ちに至らんとせしに悪風たちまち吹起つて
逆浪天を浸しけれは船とも散々になつて吹戻され
終に本意は遂す茲経か大胆を殿下感したまふ事
なゝめならす慶長五年の秋徳川殿にしたかひて奥に
くたる上方の軍又起りしかは引返して美濃の国に
戦ひ関か原の軍起てのち茲経一勢はせむかひて
石見伯耆因幡但馬の城々あるひは攻あるひは降
し山陰の地こと〳〵くにたいらく其功これ莫大也
【左丁】
とて頓て勧賞を行るゝ事すくなからす《割書:本領は一万三千石三万石を|くはへられ四万三千石を領す》
子息豊前守政矩父につき《割書:茲経卒せし年月いまたしらす大坂|前後の御陣供奉帳を見るに亀井能登守》
《割書:冬陣にはしたかひ夏陣には国にありといふ按するに茲経のちに豊前守に|任す政矩父か世にありしほとに能登守にて大坂前後の軍の時はいまた》
《割書:豊前守に任せ|さりし時にや》元和三年石見国津和野の城をたまひて移る
《割書:四万三|千石》政矩卒して《割書:卒せし年月|いまたしらす》子息等に所領わかち給ふ
《割書:兄能登守四万石|弟定右衛門三千石》嫡子茲政家をつき寛永十年能登守に
任し後豊前守に任す延宝八年十二月十八日六十四歳
にして卒す嫡子伊予守政直早世し二男松之助茲親
家をつく《割書:後能登守|又隠岐守》
現代語訳
【右丁】
茲経は大いに喜び、急いで兵船を揃え軍勢を催し、馬・武具・兵糧・馬の飼料を積み込んで南を指して出発した。すでにかの地に到着しようとした時、悪風がたちまち吹き起こって逆浪が天を浸すほどとなったので、船どもは散々に破損して吹き戻され、ついに本意を遂げることができなかった。茲経のこの大胆さを殿下(秀吉)が感心されることは並々ならぬものであった。慶長五年(1600年)の秋、徳川殿に従って奥州に下ったが、上方で軍が再び起こったので引き返して美濃国で戦い、関ヶ原の戦いが起こった後、茲経は一勢を率いて駆けつけ、石見・伯耆・因幡・但馬の城々をあるいは攻め、あるいは降伏させ、山陰の地をことごとく平定した。その功績は莫大であった
【左丁】
として、すぐに恩賞が行われることも少なくなかった(本領は一万三千石で、三万石を加えられて四万三千石を領した)。子息豊前守政矩が父に続き(茲経が死去した年月はまだ分からない。大坂前後の御陣供奉帳を見ると亀井能登守は冬の陣には従ったが、夏の陣には国にいたという。考察するに茲経はその後豊前守に任じられ、政矩は父の世にある間は能登守であって、大坂前後の軍の時はまだ豊前守に任じられていなかった時だろうか)、元和三年(1617年)石見国津和野の城を賜って移った(四万三千石)。政矩が死去し(死去した年月はまだ分からない)、子息らに所領を分け与えた(兄能登守四万石、弟定右衛門三千石)。嫡子茲政が家を継ぎ、寛永十年(1633年)能登守に任じられ、後に豊前守に任じられた。延宝八年(1680年)十二月十八日、六十四歳で死去した。嫡子伊予守政直は早世し、二男松之助茲親が家を継いだ(後に能登守、また隠岐守)。