翻刻
【右丁】
引て帰る案のことく明る慶長六年岩崎といふ所に凶徒
蜂起し利直はせ向つて戦ふ時すてに冬に至り風雪
ことにはなはたしかりしかは引返し七年の春ふたゝひ軍起
し戦其程を経て終にこと〳〵くたいらけぬ同き十七年利直
関東に伺候せしに十二月廿日将軍家 彼家にならせ給ひ
物おほく下し給ひたてまつる物又すくなからす十九年の
冬大坂軍起りし時将軍家の先陣して馳上る明れは
元和元年の夏ふたゝひ軍起りしにはほと遠けれは
軍散して参る寛永三年九月従四位下に叙し同き
九年八月十八日五十七歳にて卒す嫡子山城守重直家を
【左丁】
つき寛文四年九月十日五十九歳にて卒す嫡男兵六郎
早世したりしかは堀田加賀守正盛か三男を《割書:内蔵助正勝と|いひしなり》
やしなふて子とせしに早世してよつきとすへき子なかりし
ほとに舎弟等に所領をわかちゆつる 大膳大夫重信
利直か二男重直か弟也《割書:はしめ七戸の家をつき|隼人と申せしなり》兄重直か家
をつく《割書:八万|石》重信か嫡子信濃守行信その余の男子
なをおほし
左衛門大夫源直房は利直の末子重直の弟也】《割書:実は利直の|末子主水》
《割書:利長の子として|主水といひし也》重直卒するとき八戸の地をわかちゆつらる
《割書:二万|石》寛文八年卒しけれは其子遠江守直政父につき
【注 この一文理屈に合わず】
現代語訳
【右丁】
引き返して帰った。案の定、明くる慶長6年、岩崎という所で反乱軍が蜂起し、利直は駆けつけて戦った。時はすでに冬に至り、風雪が特に激しかったので、引き返し、7年の春に再び軍を起こして戦い、その期間を経て、ついに完全に平定した。同じく17年、利直が関東に参上した際、12月20日、将軍家が彼の家に行幸され、多くの物を下賜された。献上した物もまた少なくなかった。19年の冬、大坂の陣が起こった時、将軍家の先陣として駆け上った。明けて元和元年の夏、再び軍が起こったが、遠方であったため、軍を解散して参上した。寛永3年9月、従四位下に叙せられ、同じく9年8月18日、57歳で死去した。嫡子山城守重直が家を
【左丁】
継ぎ、寛文4年9月10日、59歳で死去した。嫡男兵六郎が早世したため、堀田加賀守正盛の三男を(内蔵助正勝と言った)養子として迎えたが、早世して跡継ぎとなるべき子がいなかったので、兄弟らに所領を分け与えた。大膳大夫重信は利直の二男で重直の弟である(初め七戸の家を継ぎ、隼人と申した)。兄重直の家を継いだ(8万石)。重信の嫡子信濃守行信、その他の男子もなお多い。
左衛門大夫源直房は利直の末子で重直の弟である(実は利直の末子主水)(利長の子として主水と言った)。重直が死去した時、八戸の地を分け与えられた(2万石)。寛文8年に死去したので、その子遠江守直政が父の跡を継いだ。
【注 この一文は理屈に合わず】