琉球・沖縄の世界を翻刻する

コレクション: ハワイ大学所蔵 阪巻・宝玲文庫 vol. 1

琉球新誌 図附 上 - 翻刻

琉球新誌 図附 上 - ページ 15

ページ: 15

翻刻

ノ北端、琉球ノ北界ニ在リ、島ノ北端、笠利(カサリ)崎ハ、北緯二 十八度二十九分ニ在リ、島形 山葵(ワサビ)ノ根ノ如ク、稍東北 ヨリ、西南ニ長ク、大約長サ二十里許、幅員、南広ク八九 里、北狭ク一二里、周回六十里許、」此島、古昔ノ一名ヲ阿(ア) 麻弥(マミ)島ト云、今、島ノ東北端ニ、湯湾(ユワン)岳アリ、上世、神人 阿(ア) 摩美久(マミク)、始メテ此山ニ降ル、因テ旧名ヲ阿麻美(アマミ)岳ト云 ヒ、島モ亦因テ名トス、」《割書:或云、旧名、阿麻弥、後、地形稲大ナ|ルニ因テ、大島ト名クト、或云、為》 《割書:朝、此島ニ在ルトキ、伊豆|ノ大島ニ擬ヘ名クト、》湯湾岳ノ高サ、二百五十丈、即チ 島中ノ山脈起ル所ニテ、永明山、清水山、菊花山、南ニ在 ルハ、百二十五丈、島内、総テ山岳多ク、北部僅ニ平遠ナ リ、奈瀬(ナセ)、古見(コミ)、笠利(カサリ)、住用(スムヨウ)、焼内(ヤキウチ)、西(ニシ)、東(ヒカシ)ノ七間切、別ニ瀬名(セナ)、竜(タツ) 郷(ゴウ)、赤木名(アカキナ)、大和浜(ヤマトハマ)、須垂(スダル)、渡連(ドレン)、実久(サネク)アリ、二百六十村、大里 長十二員、小里長百六十員ヲ置キ、奈瀬ヲ首府トス、奈 瀬ハ、北岸ニ在リ、笠利(カサリ)崎、島ノ北端ニ突出シテ、一湾ヲ 成シ、内ニ深井(フカヰ)浦 竜郷(タツゴウ)港アリ、共ニ北ニ向フ好港ニテ、 大船数十ヲ泊セシム、東岸住用ニ銅鉱アリ、住用川、頗 大ニ、港口船舶輻湊ス、西端ノ西古見湊ハ、大船七八艘 泊スベシ、少シク東北ニ転ジ、焼内(ヤキウチ)湊ハ、港口ニ、伊大天(イタテ) 良(ラ)島アリ、港形深ク入リ、一川会注シ、大船百余艘泊ス ベシ、好港ナリ、更ニ北ニ、大和浜(ヤマトハマ)ノ湊アリ、」全島、田野頗 ル開ケ、山谷豊沃ノ光景、沖縄ノ如シ、人口稠密、略文学 アリト云、風俗、大抵沖縄ニ似テ、但人気険悪ナリ、婦人、 【枠外上部】大島ノ周回、尽ク好港ナラザルハナク、西洋人ノ賞スル所ナリ、殊ニ焼内竜郷ヲ最好トス、且、南岸加計留末島ト瀬戸ノ如キ、一帯ニ碇泊スベシト云、 【枠外上部】焼内ハ、或ハ、屋喜(ヤギ)内トモ書ス、元来、焼打ニテ、慶長征伐ノ時、島津氏ノ兵、焼払ヒシ処ト云、

現代語訳

の北端で、琉球の北界に位置する。島の北端、笠利(カサリ)崎は、北緯二十八度二十九分に位置する。島の形は山葵(ワサビ)の根のようで、やや東北から西南に長く延び、大体の長さは二十里ほど、幅は南部が広く八九里、北部が狭く一二里、周囲は六十里ほどである。この島の古い名前を阿麻弥(アマミ)島という。今、島の東北端に湯湾(ユワン)岳があり、上古の時代、神人阿摩美久(アマミク)が初めてこの山に降臨した。そのため旧名を阿麻美(アマミ)岳といい、島もまたそれに因んで名付けられた。《或いは云う、旧名は阿麻弥で、後に地形が稲のように大きいことから大島と名付けたと。或いは云う、薩摩がこの島にあった時、伊豆の大島に擬えて名付けたと。》湯湾岳の高さは二百五十丈で、すなわち島中の山脈が起こる所である。永明山、清水山、菊花山、南にあるものは百二十五丈である。島内は総じて山岳が多く、北部だけがわずかに平坦で遠くまで見渡せる。奈瀬(ナセ)、古見(コミ)、笠利(カサリ)、住用(スムヨウ)、焼内(ヤキウチ)、西(ニシ)、東(ヒガシ)の七間切があり、別に瀬名(セナ)、竜郷(タツゴウ)、赤木名(アカキナ)、大和浜(ヤマトハマ)、須垂(スダル)、渡連(ドレン)、実久(サネク)がある。二百六十村があり、大里長十二人、小里長百六十人を置き、奈瀬を首府とする。奈瀬は北岸にあり、笠利崎が島の北端に突出して一つの湾を成し、内に深井(フカイ)浦、竜郷(タツゴウ)港がある。どちらも北に向かう良港で、大船数十隻を停泊させることができる。東岸の住用に銅鉱があり、住用川はかなり大きく、港口には船舶が多く集まる。西端の西古見湊は、大船七八隻が停泊できる。少し東北に向かい、焼内(ヤキウチ)湊は、港口に伊大天良(イタテラ)島があり、港の形は深く入り込み、一つの川が合流注入し、大船百余隻が停泊できる良港である。さらに北に大和浜(ヤマトハマ)の湊がある。全島にわたって田野がかなり開けており、山谷の豊沃な光景は沖縄のようである。人口は密集しており、ある程度の文学があるという。風俗は大体沖縄に似ているが、ただ人気(人の気質)は険悪である。婦人は、 【枠外上部】大島の周囲には、すべて良港でない所はなく、西洋人が賞賛する所である。特に焼内、竜郷を最良とする。また、南岸の加計留末島との瀬戸のような所は、一帯に碇泊できるという。 【枠外上部】焼内は、或いは屋喜(ヤギ)内とも書く。元来は「焼打」で、慶長征伐の時、島津氏の兵が焼き払った処という。