翻刻
り、これ琉球(りうきう)薩摩(さつま)の附庸(ふよう)となるの始(はじ)めなり、《割書:旧|伝》
《割書:集、諸門跡譜等|に据りてしるす》
永享(えいかう)以後(いご)琉球使(りうきうし)の来(きた)る
文安(ふんあん)五年、琉球人 来(きた)る、《割書:分類年|代記》宝徳(はうとく)三年七月、琉球
の商人(あきひと)の船(ふね)兵庫(ひやうご)の津(つ)に着岸(ちやくがん)したるに、守護職(しゆこしよく)
細川京兆(ほそかはけいてう)、やがて人(ひと)をつかはして、彼(かの)商物(あきなひもの)を撰(えら)み
取り料足(れうそく)を渡(わた)さず、先々年々(せん〳〵ねん〳〵)の借財(しやくさい)四五千貫(しこせんぐわん)に
及(およ)べども返弁(へんべん)なく、その上(うへ)売物(うりもの)をおさへ留(と)めら
れて、琉球人 難義(なんぎ)のよしまうしければ、時(とき)の公方(くばう)《割書:義|政》
より、奉行(ぶきやう)三人(さんにん)、布施下野守(ふせしもつけのかみ)、飯尾(いひを)与三左衛門(よさうざゑもん)同(おなじく)六(ろく)
郎(らう)をつかはされて、糺明(きうめい)【左注「たゞす」】せられしに、かの押(お)して取(とり)た
る物(もの)を、京兆(けいてう)より返(かへ)されざるによりて、奉行(ぶきやう)の上洛(しやうらく)延(えん)
引(にん)せしといふことあり、《割書:康富|記》同じ年(とし)の九月、琉球人(りうきうじん)の
献上(けんじやう)するところの、鳥目(てうもく)一千貫(いつせんぐわん)を、禁中(きんちゆう)に進献(しんけん)せ
らる、《割書:京都将|軍家請》文正(ぶんしやう)元年七月廿八日、琉球人 参洛(さんらく)す、こ
れは足利義政(あしかゞよしまさ)の世(よ)になりて、六度目(ろくたびめ)なりとぞ、《割書:斎|藤》
《割書:親基|日記》天正(てんしやう)十一年琉球 国(こく)入貢(にふこう)す、《割書:和漢合運、異|国往来記》おもふに
永享(えいかう)以後(いご)、琉球 使(し)の我邦(わがくに)に入貢(にふこう)するもの、これよ
現代語訳
り、これが琉球が薩摩の属国となる始まりである。(旧伝集、諸門跡譜等に拠って記す)
永享以後の琉球使の来日
文安五年、琉球人が来た。(分類年代記)宝徳三年七月、琉球の商人の船が兵庫の津に着岸したが、守護職細川京兆は、すぐに人を遣わして、その商品を選んで取り、代金を渡さず、これまで年々の借財が四、五千貫に及んでも返済せず、その上売り物を押収して留められて、琉球人が困窮しているとの訴えがあった。そこで時の公方(義政)より、奉行三人、布施下野守、飯尾与三左衛門、同じく六郎を派遣して糾明させたが、かの押収した物を、京兆より返却されないために、奉行の上洛が延引したということがある。(康富記)同じ年の九月、琉球人が献上するところの、鳥目一千貫を、禁中に進献された。(京都将軍家請)文正元年七月二十八日、琉球人が参洛した、これは足利義政の世になって、六度目であるという。(斎藤親基日記)天正十一年琉球国が入貢した。(和漢合運、異国往来記)思うに永享以後、琉球使が我が国に入貢するもの、これより
英語訳
This was the beginning of Ryukyu becoming a vassal of Satsuma. (Recorded based on the Kyūdenshū, Sho-monzeki-fu, and other sources)
Ryukyu Envoys Coming [to Japan] After Eikyō
In Bun'an 5, Ryukyu people came. (Bunrui nendaiki) In the seventh month of Hōtoku 3, when a Ryukyu merchant ship docked at the port of Hyōgo, the military governor Hosokawa Keicho immediately sent people to select and take their merchandise without paying for it. Previous debts over the years had reached four to five thousand kan, but there had been no repayment, and furthermore their goods were confiscated and detained, causing great hardship to the Ryukyu people, who made this complaint. Therefore, the kubō of the time (Yoshimasa) sent three magistrates: Fuse Shimotsuke-no-kami, Iio Yosazaemon, and Iio Rokurō, to investigate the matter. However, since Keicho would not return the confiscated goods, the magistrates' return to the capital was delayed. (Kōfuki) In the ninth month of the same year, one thousand kan of copper coins offered by the Ryukyu people were presented to the imperial court. (Kyōto shōgun-ke ukesho) On the twenty-eighth day of the seventh month of Bunshō 1, Ryukyu people came to the capital. This was the sixth time since Ashikaga Yoshimasa came to power. (Saitō Chikamoto nikki) In Tenshō 11, the Kingdom of Ryukyu sent tribute. (Wakan gōun, Ikoku ōraiki) It appears that after Eikyō, Ryukyu envoys bringing tribute to our country, from this [point onward]