翻刻
日本国王(にほんこくわう)源義教(けんきけう)に諭(ゆ)すといひ、《割書:これ永享八|年のことなり》嘉靖(かせい)三
年、琉球の長吏(ちやうす)【史】金良(きんりやう)の詞(ことは)に、これより先(さき)に正議(しやうぎ)大夫(たいふ)
鄭縄(ていしよう)といふものをして、日本国王(にほんこくわう)に転諭(てんゆ)す、《割書:これ大永|四年のこ》
《割書:となり○中山伝信録、|琉球国志略に見えたり》といへることあれば、明(みん)より我邦(わがくに)へ書(しよ)
を贈(おく)るに、琉球 使(し)に命(めい)ぜしこともありしとぞお
もはるゝ、
琉球(りうきう)薩摩(さつま)の附庸(ふよう)となる
足利義満(あしかゞよしみつ)公(こう)の男(なん)、大覚寺(だいかくじ)門跡(もんせき)義昭(ぎせう)大僧正(だいそうじやう)、逆意(ぎやくい)
の企(くわだ)てありて九州(きうしう)へ下(くだ)りたまふが、その事(こと)露顕(ろけん)【左注「あらわれ」】し
ければ、日向国(ひうかのくに)福島(ふくしま)の永徳寺(えいとくし)に隠(かく)れて、野武士(のぶし)など
頼(たの)み居(ゐ)たまひけるに、足利義教(あしかゞよしのり)聞(きこ)しめし付(つけ)ら
れ、薩州(さつしう)の太守(たいしゆ)島津陸奥守(しまづむつのかみ)忠国(たゞくに)へ討(う)ち奉(たてまつ)るべき
よし命(めい)ぜられしかば、嘉吉(かきつ)元年三月十三日、樺山某(かはやまそれかし)
にあまたの兵士(へいし)を従(したか)はしめ討手(うつて)に向(むけ)られければ、僧(そう)
正(しやう)は自害(じかい)せられける即(すなは)ち御首(おんくひ)をば将軍(しやうくん)へ贈(おく)られ
たり、僧正(そうしやう)の役人(やくにん)別垂 讃岐坊(さぬきばう)といふもの、同(おな)じ時(とき)に
討(うた)れしとぞきこえし、この恩賞(おんしやう)として、薩州(さつしう)の
太守(たいしゆ)へ琉球国(りうきうこく)と通信(つうしん)【左注「ゆきかよひ」】交易(かうえき)なすべきよしの命(めい)あ
現代語訳
日本国王源義教に諭告するといい、(これは永享八年のことである)嘉靖三年、琉球の長史金良の言葉によると、これより先に正議大夫鄭縄という者をして、日本国王に転諭させた、(これは大永四年のことである)(中山伝信録、琉球国志略に見える)ということがあるので、明から我が国へ書状を送るのに、琉球使に命じたこともあったと思われる。
琉球が薩摩の属国となる
足利義満公の男子で、大覚寺門跡義昭大僧正は、反逆の企てがあって九州へ下ったが、その事が露見したので、日向国福島の永徳寺に隠れて、野武士などを頼みにしていた。足利義教がこれを聞きつけて、薩摩の太守島津陸奥守忠国に討伐するよう命じたので、嘉吉元年三月十三日、樺山某に多数の兵士を従わせて討手に向かわせたところ、僧正は自害された。すぐに御首を将軍へ送られた。僧正の役人で別垂讃岐坊という者も、同じ時に討たれたと聞いている。この恩賞として、薩摩の太守へ琉球国と通信交易をなすべきとの命があり
英語訳
addressed to Japan's King Minamoto no Yoshinori (this was in the eighth year of Eikyō). In the third year of Jiajing, according to the words of Ryukyu's chief administrator Jin Liang, prior to this, one Zheng Sheng, a Grand Master for Deliberation, was sent to convey [Ming imperial messages] to the King of Japan (this was in the fourth year of Daiei) (as recorded in the Chuzan denshin-roku and Ryukyu kokushi-ryaku). Therefore, it appears that when the Ming sent letters to our country, they sometimes commanded Ryukyu envoys [to deliver them].
Ryukyu Becomes a Vassal of Satsuma
Lord Ashikaga Yoshimitsu's son, Daikaku-ji monzeki Gishō Dai-sōjō, harbored treasonous plans and went down to Kyushu. When this matter was exposed, he hid in Eitoku-ji temple in Fukushima, Hyuga Province, relying on rōnin warriors and such. When Ashikaga Yoshinori learned of this, he commanded Satsuma's lord, Shimazu Mutsu-no-kami Tadakuni, to attack him. On the thirteenth day of the third month of Kakitsu 1, he sent Kabayama [given name unclear] with many soldiers as an attacking force. The sōjō committed suicide, and his head was immediately sent to the shōgun. The sōjō's retainer, one Betsudare Sanuki-bō, was also killed at the same time, it is said. As a reward for this service, the lord of Satsuma was given orders to conduct diplomatic relations and trade with the Kingdom of Ryukyu