翻刻
摩(ま)の附庸(ふよう)とせられしより、宝徳(はうとく)に来聘(らいへい)して後(のち)、百(ひやく)
余年(よねん)貢使(こうし)来(きた)らざりしかば、慶長(けいちやう)十四年、島津家(しまづけ)より
その罪(つみ)を正(たゞ)さんために、軍(いくさ)をおこしてかの国(くに)を討(うた)れ
しよしいふは非(ひがごと)なり、琉球事略(りうきうしりやく)に、近年(きんねん)その国(くに)の三司(さんし)
官(くわん)邪那(しやな)といふもの、大明(たいみん)と相議(あひぎ)して、その国王(こくわう)を勧(すゝ)め
て、日本人(につほんじん)の往来(わうらい)をとゞむといひ、また定西法師(ぢやうさいほうし)物語(ものかたり)
にも、定西(ちやうさい)いまだわかゝりしころ、薩州(さつしう)に琉球の王子(わうじ)
の来(きた)り寓(ぐう)せられしに従(したが)ひて、かの島(しま)にわたりて寵(ちよう)
を得(え)て、後(のち)我邦(わがくに)にかへりしが、慶長(けいちやう)の征伐(せいばつ)に、その王(わう)
子(し)も擒(とら)はれて駿府(すんふ)に来(きた)りしに、はからず定西(ちやうさい)に逢(あ)
へりといふこと見えたり、これらにてもその往来(わうらい)百余(ひやくよ)
年(ねん)絶(た)えしにはあらざるをおもふべし、
薩琉軍談(さつりうぐんだん)の弁(べん)
世に薩琉軍談といふ野史(やし)あり、その書(しよ)の撰者(せんじや)詳(つまびらか)な【ママ】
ずといへども、あまねく流布(るふ)して、二国(にこく)の戦争(せんさう)【左注「たゝかひ」】をい
ふものはかならず口実(こうじつ)とす、そのいふところ、薩州(さつしう)の
太守(たいしゆ)島津(しまづ)兵庫頭(ひやうごのかみ)義弘(よしひろ)の代(よ)に、惣大将(そうたいしやう)新納(にひろ)武蔵(むさし)
守(かみ)一氏(かずうち)、種島大膳(たねがしまたいぜん)佐野帯刀(さのたてはき)等(とう)、士卒(しそつ)惣人数(そうにんず)十
現代語訳
摩の附庸とされてから、宝徳年間に来聘した後、百余年間貢使が来なかったので、慶長十四年に島津家がその罪を正すために軍を起こしてあの国を討伐したというのは間違いである。『琉球事略』には、近年その国の三司官である邪那という者が、大明と相談して、その国王を勧めて日本人の往来を止めたと記されており、また『定西法師物語』にも、定西がまだ若かった頃、薩州に琉球の王子が来て滞在されたのに従って、あの島に渡って寵愛を得て、後に我が国に帰ったが、慶長の征伐の際に、その王子も捕らえられて駿府に来た時に、思いがけず定西に会ったということが記されている。これらによっても、その往来が百余年間絶えていたわけではないことを理解すべきである。
『薩琉軍談』への反論
世に『薩琉軍談』という野史がある。その書の撰者は詳らかではないが、広く流布しており、二国の戦争を論じる者は必ず典拠として用いる。その記述によれば、薩州の太守島津兵庫頭義弘の代に、総大将新納武蔵守一氏、種島大膳、佐野帯刀等、士卒総人数十
英語訳
Since [Ryukyu] was made a vassal state of Satsuma, after the diplomatic mission during the Hōtoku period, tribute envoys did not come for over a hundred years, so in Keichō 14 the Shimazu house raised an army to punish that country for its crimes - this claim is false. "Ryukyu Jiryaku" records that in recent years a Sanshikan official of that country named Shana consulted with the Great Ming and persuaded the king of that country to stop Japanese people from coming and going. Also, "Jōsai Hōshi Monogatari" records that when Jōsai was still young, he followed a Ryukyu prince who came to stay in Satsuma province, crossed over to that island, gained favor, and later returned to our country. During the Keichō conquest, that prince was also captured and brought to Sunpu, where he unexpectedly met Jōsai. From these accounts as well, one should understand that the coming and going had not ceased for over a hundred years.
Refutation of "Satsuryū Gundan"
There exists in the world a unofficial history called "Satsuryū Gundan." Though the compiler of this book is not clearly known, it has circulated widely, and those who discuss the war between the two countries invariably use it as their source. According to its account, during the era of Shimazu Hyōgo-no-kami Yoshihiro, lord of Satsuma province, with Commander-in-Chief Niiro Musashi-no-kami Kazuuji, Tanegashima Taizen, Sano Tatehaki and others, the total number of soldiers was ten