琉球・沖縄の世界を翻刻する

コレクション: ハワイ大学所蔵 阪巻・宝玲文庫 vol. 1

琉球入貢紀畧 - 翻刻

琉球入貢紀畧 - ページ 26

ページ: 26

翻刻

万千八百五十四人 渡海(とかい)せしといへり、又かの国(くに)の澐灘(うんだん) 湊(そう)、竹虎城(ちくこぢやう)、あるひは米倉島(べいさうたう)、乱蛇浦(らんじやほ)などいふ地名(ちめい)あり、 その将士(しやうし)には、陳文碩(ちんぶんせき)、孟亀霊(まうきれい)、朱伝説(しゆでんせつ)、張助昧(ちやうじよまい)等(とう)の名(な) をしるしたり、まことにあとかたもなき妄誕(まうたん)にして、 その書(しよ)の無稽(ぶけい)、論(ろん)を待(また)ずしてしるべし、慶長征伐(けいちやうせいばつ) のこと、已(すで)に本編(ほんへん)に詳(つまひらか)なれば更(さら)にこゝにいはず、   琉球国志略(りうきうこくしりやく)の訛(くわ)謬(べり[ママ])【左注「あやまり」】を弁(べんず) 琉球国志略云(りうきうこくしりやくにいはく)、万歴間(ばんれきかん)浦添孫慶長(うらぞひのそんけいちやう)即察度王後(すなはちさつとわうののち)、興(につ) 於日本(ほんにおこり)、自薩摩州挙兵入中山(さつましうよりへいをあげちゆうざんにいり)、執王及群臣以帰(わうおよびぐんしんをとらへもつてかへる)、留(とゞまる) 二年(ことにねん)、迵不屈被殺(たうくつせずころさる)、王危坐不為動(わうきざしてためにうごかず)、慶長異之卒送王(けいちやうこれをことなるとしてつひに) 帰国(わうをおくりくにゝかへす)と見えたり、唐土(もろこし)の人(ひと)もとより我邦(わがくに)の事実(しじつ)に 疎(うと)し、島津氏(しまづうぢ)をもて琉球 察度王(さつとわう)の裔(えい)とし、慶長(けいちやう) は我邦(わがくに)の年号(ねんがう)なることを知(し)らずして島津氏(しまづうぢ)の 名(な)とす、その訛謬(くわべう)尤笑(もつともわら)ふべし、この事(こと)已(すで)に中山(ちゆうざん) 伝信録(でんしんろく)に世纘図(せいさんづ)を引(ひき)ていへりといへども、国史略(こくしりやく)は伝(でん) 信録(しんろく)に比(ひ)【左注「くらべ」】すれば頗詳(すこぶるつまびらか)にして且(かつ)正(たゞ)し、ゆゑに今(いま)国史 略につきてこれを弁(べん)ず、さて因(ちなみ)に云(いふ)初学(しよがく)の輩(ともがら)、 我邦(わがくに)の事蹟(じせき)たま〳〵唐土(もろこし)の載籍(さいせき)に見ゆるとき

現代語訳

万千八百五十四人が渡海したという。また、あの国の澐灘湊、竹虎城、あるいは米倉島、乱蛇浦などという地名があり、その将士には陳文碩、孟亀霊、朱伝説、張助昧等の名前を記している。まことに根拠のない妄想的な話であり、その書の信憑性のなさは、論じるまでもなく明らかである。慶長征伐のことは、すでに本編で詳しく述べているので、ここでは改めて言わない。 『琉球国志略』の誤りを正す 『琉球国志略』には次のようにある。「万暦年間に浦添按司の孫である慶長が察度王の後を継いで、日本に対して反乱を起こし、薩摩州から兵を挙げて中山に入り、王および群臣を捕らえて連れ帰った。二年間滞在したが、頑として屈服せず殺された。王は端座して動じなかった。慶長はこれを異とし、ついに王を送って国に帰した」と記されている。中国の人はもとより我が国の事実に疎い。島津氏を琉球の察度王の後裔とし、慶長は我が国の年号であることを知らずに島津氏の名前としている。その誤りは実に笑うべきものである。このことはすでに『中山伝信録』で『世纘図』を引用して述べているが、『国史略』は『伝信録』に比べて極めて詳細でかつ正確であるので、今『国史略』に基づいてこれを正す。ついでに言うが、初学者が我が国の事跡がたまたま中国の書物に見えるとき

英語訳

10,854 men crossed the sea. It also lists place names such as Undan Port, Chikuko Castle, or Beisō Island, Ranja Bay in that country, and records the names of generals and officers such as Chen Wenshuo, Meng Guilin, Zhu Chuanshuo, Zhang Zuomai, and others. This is truly groundless fabrication, and the unreliability of this book is clear without need for argument. Since the Keichō conquest has already been detailed in the main text, I will not discuss it again here. Correcting the Errors of "Ryukyu Kokushi Ryaku" "Ryukyu Kokushi Ryaku" states: "During the Wanli period, Keichō, grandson of the Urasoe lord, succeeded King Satto and rebelled against Japan. From Satsuma province, troops were raised and entered Chūzan, capturing the king and his ministers and taking them back. They stayed for two years, but stubbornly refused to submit and were killed. The king sat upright and remained unmoved. Keichō found this strange and finally sent the king back to his country." Chinese people are naturally unfamiliar with the facts of our country. They mistake the Shimazu clan for descendants of King Satto of Ryukyu, and not knowing that Keichō is a Japanese era name, they treat it as the name of the Shimazu clan. These errors are truly laughable. This matter has already been discussed in "Chūzan Denshinroku" by citing the "Seisan-zu," but "Kokushi Ryaku" is extremely detailed and accurate compared to "Denshinroku," so I now correct this based on "Kokushi Ryaku." Incidentally, when beginners find traces of our country's history appearing in Chinese records,