翻刻
【右丁】
《割書:あらはれ守隆大にいかりて|重科に所【処とあるところ】したりと云々同き》十九年の秋大坂の軍起ると
聞えしかは守隆兵船に取乗て本国をたち十月十九日
摂津の国にをしわたつて大船五艘に船五十余艘川口
をさしふさきて諸国往来の船を禁し大坂の番船とも
うはひとり野田福島の要害を攻やふる守隆年六十
歳寛永八年九月にこそは卒しけれ《割書:日いまた|きかす》守隆男子
四人あり嫡子志摩守良隆《割書:慶長十一年七月晦日良隆駿河に|来り初て大御所に見参し来》
《割書:国次の御刀を給りし事|家忠日記追加にいつ》二男長助貞隆二人なから父に
さきたち死してけり三男式部少輔隆秀四男大和守
直隆嫡男志摩守良隆男子なりしかは大和守直隆を
【左丁】
嗣として其家をつたえけり《割書:其系図にいつある書にはしめ|大隅守嘉隆か石田に組せし時に》
《割書:上方の軍かつ事を得は嫡孫なれは式部少輔隆秀をよつきにせんとす|守隆これゆへに式部少輔隆秀に家をつかせん事をはかりそれの弟大和守》
《割書:直隆して家を継せん事をはゝかり|たりと云々あやまれるにや》守隆卒して後彼家の本領
鳥羽の城直隆に給はり寛永十年摂津の国三田の地に
うつさる《割書:丹波地ともに三万|六千石といふ》直隆慶安二年正月廿日に卒し
其子長門守隆昌家をつき寛文四年六月廿八日に卒し
男子なかりしかは松平相模守光仲の二男やしなひて
家をつかせん事を望しによつて御ゆるしをかうふり
元服の後和泉守に任し隆仲と名のる
式部少輔藤原隆季長門守守隆か三男父か遺言に
現代語訳
【右丁】
《割書:明らかになり、守隆は大いに怒って重い刑に処したという》同じく十九年の秋、大坂の軍が起こると聞こえたので、守隆は兵船に乗って本国を出立し、十月十九日に摂津の国に押し渡って、大船五艘に小船五十余艘で川口を塞いで、諸国往来の船を禁じ、大坂の番船と戦い、野田・福島の要害を攻め破った。守隆は年六十歳、寛永八年九月に死去した《割書:日はまだ分からない》。守隆には男子が四人あり、嫡子は志摩守良隆《割書:慶長十一年七月晦日、良隆が駿河に来て初めて大御所に拝謁し、来国次の御刀を賜ったことが家忠日記追加に出ている》、二男長助貞隆は二人とも父に先立って死んでしまった。三男は式部少輔隆秀、四男は大和守直隆。嫡男志摩守良隆には男子がなかったので、大和守直隆を
【左丁】
後継者として家を継がせた《割書:その系図にあるある書には、初め大隅守嘉隆が石田に組みした時に、上方の軍が勝利を得れば嫡孫なので式部少輔隆秀を跡継ぎにしようとし、守隆はこの故に式部少輔隆秀に家を継がせることを図り、それで弟の大和守直隆に家を継がせることを憚ったという。これは間違いであろうか》。守隆が死去した後、彼の家の本領鳥羽の城は直隆に与えられ、寛永十年に摂津の国三田の地に移された《割書:丹波の地とともに三万六千石という》。直隆は慶安二年正月二十日に死去し、その子長門守隆昌が家を継ぎ、寛文四年六月二十八日に死去した。男子がなかったので、松平相模守光仲の二男を養子にして家を継がせることを願い出て、ご許可をいただき、元服の後和泉守に任じられ、隆仲と名乗った。
式部少輔藤原隆季は長門守守隆の三男で、父の遺言により