翻刻
【右丁】
するにおよひて家をつく慶安三年十月七日五十五歳
のいして卒しぬその子長門守頼直寛永二年十一月
十二日叙爵し重頼卒して家をつく頭の毛禿也
しかは望請ふて剃髪し立軒と号し《割書:寛文二年二月|廿三日の事也》
寛文五年七月十八日四十七歳にて卒すその子
飛騨守頼業家をつき寛文十一年十二月廿八日卒す
廿四歳其子万助頼時七才にして父につく
五郎八長光は兵部卿法印素玄か二男なりはしめ法印
五郎八長近と申せし時出雲守可重を養て子とす
其後一人の男子をもうく忠次郎長則これ也老後に
【左丁】
及ひて又一人の男子有法印死せし後大御所駿河の
国にめされてはしめ法印に給りし美濃河内等の所領
をわかちて彼幼息に賜り五郎八長光とは申しけり
《割書:濃州関上有知河州に金田|等すへて二万石の地なり》慶長十六年十月六日長光世を
はやうして世継なけれは家絶たり《割書:時に長光|六才也と云》
現代語訳
【右丁】
するに及んで家を継いだ。慶安三年十月七日、五十五歳にして死去した。その子長門守頼直は寛永二年十一月十二日に叙爵し、重頼が死去して家を継いだ。頭の毛が禿げていたので、願い出て剃髪し、立軒と号した《割書:寛文二年二月二十三日のことである》。寛文五年七月十八日、四十七歳にて死去した。その子飛騨守頼業が家を継ぎ、寛文十一年十二月二十八日に死去した。二十四歳であった。その子万助頼時は七歳にして父の跡を継いだ。
五郎八長光は兵部卿法印素玄の二男である。初め法印五郎八長近と申していた時、出雲守可重を養って子とした。その後一人の男子を設けた。忠次郎長則である。老後に
【左丁】
及んでまた一人の男子があった。法印が死去した後、大御所が駿河国に召されて、初め法印に給わった美濃・河内等の所領を分けて、彼の幼い息子に賜り、五郎八長光と申した《割書:美濃州関・上有知・河州金田等、すべて二万石の地である》。慶長十六年十月六日、長光は早世して世継ぎがなかったので家は絶えた《割書:その時長光は六歳であったという》。