翻刻
【右丁】
領なれは景勝かならす佐々ほろほしてとらんとす
しかるに今秀吉の使を承てのち彼国をうたん事
秀吉と国をあらそふに 似たりまた景勝か一度も
かれとたゝかはて秀吉の望に任せなんもいひかひなし
所詮此度かの国にむかつて越後の武者の弓矢
とるやうおことか見参に 入部【ママ 都ヵ】への餞別すへしと都合
其勢八千人十月廿三日越後国をたちて 越中国
宮崎の城におしよせて一時に城をせめをとし戸山
の城のこなたなる滑川のほとりにせめ入こゝかしこ
放火して引かへし木村をめしておことか見たらんやう
【左丁】
秀吉にかたりて景勝此国うちしたかへん事いとやす
しさりなから秀吉の望にまかせ 其功をはゆつり
訖ぬと申せ又両家のよしみむすはん 事は よな
景勝よくはかつてこそ返答には及ふへけれとて使
をは帰されたり明れは天正十三年四月秀吉越中国に
発向し佐々戦まけて降参す 《割書:秀吉家譜に 越中をうたれ|しは此年七月 秀吉関白》
《割書:に任せられし後と|すあやまれる歟》五月十三日辰刻はかりに秀吉石田治部
少輔三成木村弥一右衛門尉たゝ二騎を具して雑兵わつか
三十八人越後国落水の城下に来て此城を守りゐる
須賀修理か許に使たてゝ上杉殿へ 秀吉の 使として