翻刻
【右丁】
義宣当時日本六十余州のそのうちに徳川殿にしたか
はぬもの一人もなし我国の勢をもつて天下の敵とならん事
いかにもしてかかなふへきまつそれまても有へからす我ために
ほろほされし三十三館の余類此時をうかゝつて主君の
あたをむくひんと国中に蜂起せは雑兵の手に懸
つてうたれん事も無念也たゝとにもかくにも我家の
絶さらん事こそあらまほしけれとてその勢わつか七十
余騎累代の地をさつて同き六月十四日秋田の城にそ
入にける《割書:群馬丹波守はあとにとゝまつて兵|起しつゐにからめられて誅せられぬ》同き事七年六月
二十九日常陸介義重卒す年六十六歳大坂の軍起りし
【左丁】
とき義宣将軍家の先陣うつて馳上り今福の堤に
たゝかひて両御所の御感にあつかり家人等まて其賞
を給る《割書:福津半右衛門 大塚九兵衛 黒沢甚五兵衛|御教書をなし下され物を給ふとしるせり》義宣初め天正
八年十二月廿三日 従四位下侍従に なされ寛永三年
八月十九日左中将に任し同十年正月廿五日六十四歳に
して卒す嗣なかりしかは舎弟岩城忠二郎貞隆か男
をやしなふて子とす《割書:貞隆岩城規隆か養子|としてかの家をつきし也》左少将義隆伯父
義宣か嗣となり従四位下修理大夫になされ寛永三年
八月十九日侍従に任し家つきて 後寛文六年十二月
廿八日左少将に任して同十一年二月五日六十四歳にて
現代語訳
【右丁】
義宣は「当時、日本六十余州のうちで徳川殿に従わない者は一人もいない。我が国の勢力をもって天下の敵となろうとすることは、どうしても叶うはずがない。まして、そこまでするべきでもない。私のために滅ぼされた三十三館の残党が、この時を狙って主君の仇を報いようと国中で蜂起すれば、雑兵の手にかかって討たれることも無念である。ただ何としても我が家系が絶えないことこそ望ましい」として、その軍勢わずか七十余騎で累代の土地を去って、同じく六月十四日に秋田の城に入った。《割書:群馬丹波守は後に残って兵を挙げ、ついに捕らえられて誅殺された》同じく慶長七年六月二十九日、常陸介義重が死去した。年六十六歳。大坂の陣が起こった
【左丁】
とき、義宣は将軍家の先陣を受けて駆け上り、今福の堤で戦って両御所(将軍と大御所)の御感に預かり、家臣等までその賞を給わった。《割書:福津半右衛門、大塚九兵衛、黒沢甚五兵衛に御教書を下され物を給うと記されている》義宣は初め天正八年十二月二十三日に従四位下侍従となされ、寛永三年八月十九日に左中将に任じられ、同十年正月二十五日に六十四歳で死去した。嗣子がなかったので、舎弟岩城忠二郎貞隆の男子を養って子とした。《割書:貞隆は岩城規隆の養子としてその家を継いだ》左少将義隆が伯父義宣の跡を継いで従四位下修理大夫となされ、寛永三年八月十九日に侍従に任じられて家督を継いだ後、寛文六年十二月二十八日に左少将に任じられて、同十一年二月五日に六十四歳で