伊那市×みんなで翻刻

コレクション: 内藤家資料 (1) 2

藩翰譜(八・下) - 翻刻

藩翰譜(八・下) - ページ 44

ページ: 44

翻刻

【右丁】 議に時うつりて大臣殿の御方にもれ聞え《割書:長束戸田か許|より秀吉へ》 《割書:告申たり|といふなり》成田すみやかに死刑に処せられぬ佐々も ほとなく戦まけ降人になつて出けれは丹羽か宗徒 の家人引すくつて長束《割書:大蔵|太輔》村上《割書:周防|守》溝口《割書:伯耆|守》青山《割書:修理|亮》 青木《割書:民部|小輔》戸田《割書:武蔵|守》寺西《割書:下野|守》上田《割書:左太|郎》奥山《割書:雅楽|介》等を始として こと〳〵く大臣の御家人にめし出され長秀か遺領越前 加賀の国々をうはひて本領なれは相違あらすとて近 江国三郡の地をそ長重に給りたる《割書:長秀越前国を削られしは|天正十三年閏八月の事の》 《割書:よし多門院か記に見ゆ|一説若狭国をたまふと云》此年秀吉関白になり給ひし時 長重も侍従になさる同き十五年筑紫の郡にした 【左丁】 かひて日向の国にむかふ家人等か軍法にそむく事 ありとてまた 若狭の国 近江の地をもうはひて わつかに所領つけて加賀の国松任の城にうつさる《割書:三|万》 《割書:石とも四|万石とも》朝鮮の軍起りて肥前国名護屋に陣す文禄 四年参議に任し従三位に叙す《割書:公卿補任には見えす|武家補任には見ゆ》 慶長二年同国小松の城にうつされ所領の地くわへ られ家人等にも所領の地たまひ《割書:長重に十万石家老与右衛門|江口三郎右衛門をの〳〵一万石》 加賀守を兼ぬ同き秋太閤薨したまひ世の中 何となく者さはかしく明る四年の冬加賀中納言 利長在国謀叛の企ありと聞えて 徳川殿むか

現代語訳

【右丁】 評議をしているうちに時が経って、太閤殿下の方にも漏れ聞こえた(長束・戸田の許から秀吉へ告げ申したとも言う)。成田は速やかに死刑に処せられた。佐々もほどなく戦に敗けて降伏して出てきたので、丹羽家の一門の家臣たちは引き抜かれて、長束(大蔵大輔)、村上(周防守)、溝口(伯耆守)、青山(修理亮)、青木(民部少輔)、戸田(武蔵守)、寺西(下野守)、上田(左太郎)、奥山(雅楽介)等を始めとして、ことごとく太閤の御家人に召し出された。長秀の遺領である越前・加賀の国々を奪い取って、本来の領地であるから相違ないとして、近江国三郡の地を長重に与えた(長秀が越前国を削られたのは天正十三年閏八月のことであると、多門院の記に見える。一説では若狭国を賜ったとも言う)。この年、秀吉が関白になられた時、長重も侍従にされた。同じく十五年、筑紫の乱を鎮圧して日向の国に向かった際、 【左丁】 家臣等が軍法に背くことがあったとして、また若狭の国・近江の地をも奪われて、わずかな所領を付けられて加賀の国松任の城に移された(三万石とも四万石とも言う)。朝鮮出兵が起こって肥前国名護屋に陣を張った。文禄四年に参議に任じられ従三位に叙された(公卿補任には見えないが、武家補任には見える)。慶長二年、同国小松の城に移され、所領の地が加えられ、家臣等にも所領の地を賜った(長重に十万石、家老の与右衛門・江口三郎右衛門にそれぞれ一万石)。加賀守を兼ねた。同じ年の秋、太閤が薨去されて世の中が何となく騒がしくなり、明ける四年の冬、加賀中納言利長が在国で謀叛の企てがあると聞こえて、徳川殿が向かう