伊那市×みんなで翻刻

コレクション: 内藤家資料 (1) 2

藩翰譜(四・中) - 翻刻

藩翰譜(四・中) - ページ 18

ページ: 18

翻刻

【右丁】 《割書:忠教こゝにある事|来年正月に至る》此後東西御和睦なつて徳川殿関白秀吉に 御対面のために都に登り給ひ大廰岡崎に下り給ふに忠 世井伊本多《割書:作左衛門|重次也》と共に御後にとゝまる小田原を攻られし に忠世先陣を奉りことし徳川殿関東にうつらせ給ひし か忠世に小田原の城を賜《割書:四万石を領す後に五千石を加られ家忠日記にも|余の伝記にも井伊本多榊原大久保には関》 《割書:白殿内々の仰あつて所領の地玉ふと記按するに此人々には関白殿ゟ所領給りしと》 《割書:存するなり上杉嶋津其他の人々の家人に此例多しこれ秀吉の姦謀にて》 《割書:大名の主従不和にすへき為也と見へし秀吉薨せられし後嶋津か伊集院を誅》 《割書:せしにても推してしるへしされと当家の人々は関白殿より給ひしといふ事をき》 《割書:らいて秀吉の御内意とはいひしなるへしもし徳川殿の御心にて此人々に大禄》 《割書:を給ふ程ならは酒井左衛門尉か家わつかに三万石を給ふへきや不審》 忠世行年六十三歳にて文禄三年五月卒しぬ嫡子相模 守忠隣父につく忠隣《割書:初名は忠恭【泰の誤ヵ】新十郎といふ生年十六姉川|の戦に初て敵を打十七才の時天王山の戦に》 【左丁】 《割書:敵陣に馳入て首を取ル又三方ヶ原の|たゝかひに首を得たり》生年十一歳より徳川殿へ 近くつかへ十六才のとき姉川の合戦にさきかけし三方か原の 合戦に御方散々に戦なつて徳川殿に随ひ奉る人多から す忠隣馬射させかち立になりすこしもおくれまいらせす 徳川殿御馬を引返し〳〵落来るみかたを待給ふにかしこ こゝより馳来て兵少しは出来たれとも馬にて参し輩は 菅沼藤蔵《割書:後に土岐|山城守》三宅弥次兵衛これら二騎にはすきす徳 川殿小栗忠蔵をめして汝はいかにもして馬とつて来候へと 宣ひしに小栗とつて返し能馬とつて打乗頓て追つ き奉るいかにも小栗其馬新十郎にや借へきと仰けれは