翻刻
【右丁】
《割書:感し給ひ其子二人御家人に召仕はる今の杉浦は|かれら二人の後とそうけたまはる》斯て正信か斗
ひにて御勢を引わけ上田の城を守らせ同き十二日小諸の
城を御たちあり急てうたせ給へともせき関か原の軍はすでに
終ぬ《割書:此事の始終榊原か伝を合て見るへし〇此年慶長五年の冬大坂の西城へ|入らせ給ひし時御よつきの事を議せられ人々に申旨ありし相模守》
《割書:か申旨に依て大相国家に定|られ給ひしといふよく尋へし》明れは慶長六年の秋大納言家の姫君
《割書:大相国家此時|には権大納言》加賀の国へ入せ給ひしに忠隣をして送り参ら
せらる七年の五月佐竹か仙北にうつされし時忠隣正信常陸の
国にむかつて国制を定む忠隣男子七人あり嫡子新十郎
忠常加賀守に任し所領賜《割書:二万石忠常文禄三年|元服して御諱字給れり》奥平美作守
信昌の娘にそひ大御所の御孫聟にてことに時の賢人といひしかは
【左丁】
将軍家の御おほえもならふ人なし慶長十六年十月三十二歳
にて世をはやうす二男石川主殿頭忠総《割書:一云|敦高》外祖日向守家成
か家をつき三男右京進忠勝《割書:後に|教隆》四男主膳正忠長《割書:後に|幸信》四【ママ】
男石川内記尭成これも外祖家成にやしなはれ《割書:大坂の合戦に廿|四才にて討死或》
《割書:は清左衛門と申|て早世すといふ》六男主計忠尚七男刑部忠村と云忠隣十一歳に
して初てつかへ奉公の労積て年六十六才に及ひ忽に罪
蒙れる身となりぬ人其故をしらすたとへは慶長十九年正月
五日忠隣小田原の城をたつて都にのほるこれ大御所の仰を蒙
て西洋耶蘇の法禁せんかためとそ申ける同十七日都に入て
藤堂和泉守高虎か家に宿しまつ西の京にある彼の