翻刻
【右丁】
そ申ける
治右衛門藤原忠佐は平右衛門忠員か二男にて七郎右衛門忠世か弟
なり生年十六歳の時柴田修理亮勝家と槍を接しより
此かた一生の高名いくらといふ数をしらす《割書:忠佐十六歳柴田と戦し|と彦右衛門か物語にいつうた》
《割書:かうへからす按するに御年譜幷家忠日記増補等に弘治二年正月十八日の事とみへたり》
《割書:忠佐慶長十九年に七十七歳にて卒すといへは弘治二年十九才の時也されは七十》
《割書:七歳にて卒せしといふはあやまれるにや|十六十九の文字あやまれるにあらすや》中にも永禄十一年正月今川の
勢と掛川の城のほとりに戦て敵の士大将近松丹波守を討天
正三年五月長篠の合戦に兄の忠世をすゝめさきかけして
武田か勢を打やふつて織田殿の御感にあつかる 長湫の
戦に御使を蒙り先陣にましはりて敵を撃やかて秀吉朝臣
【左丁】
偽て北畠殿と中直りし又みつから四万五千の軍勢を
引率して楽田の辺に発向あり徳川殿浜松の城にて此
よしを聞召鞭鐙を合せてはせ向ひ玉ひまつ忠佐をして
かたきの様見せらる忠佐一騎多勢の中にはせ入て足
軽の兵とも馬にてかけ働く下部等に首ひろはせるを
見てかたき大にみたれたつ徳川殿の御幟《割書:金|扇》すてに
間近く見へ来れは一支もさゝえす散々になつてにけは
しる秀吉朝臣も其夜のうち十三里はかり引
しりそくつゐに信雄と中なをりをぞなされける忠佐
年ころ鉄炮二十人頭衆の第一にて関東へ移り玉ひし