翻刻
【右丁】
《割書:ゆつりし|といふ》元亀元年の秋家成酒井左衛門尉忠次と大将を承り
都合其勢弐千人織田殿をたすけんとて近江国に発向し佐々
木承禎入道か多勢と一日かその間戦事二十余か度終にかた
きを追ちらすこゝに近年武田に与せし遠江国人等三方か原
の合戦後本国にたち帰れはこゝかしこに要害をかまへてたて
こもる《割書:三方か原の戦には懸川の城を|守るにより軍にあはずといふ》家成これらをせめんとて天正
元年三月十五日久野三郎左衛門宗能とまつ可久輪の城におし
寄て忽に攻やふる残る城々こらへすしてせむるまてもなく
おちうせぬ同六月二俣の城をせむことし九月武田四郎勝頼
遠江の国に発向し懸川の城をめくり見るに此城中々た
【左丁】
やすくはおとされしと覚へけれはせむるに及はすして引て
帰る《割書:此時家成二人をして小豆坂の切通しにかくしをき鉄炮をもつて|勝頼をうたんと斗る馬場美濃守信春か一人をとらえた【?】る甲陽軍鑑》
《割書:に詳|なり》高天神の城落し時家成か男長門守康通首十
六を献る武田滅し年の秋康通大久保七郎右衛門忠
世とおなしく甲斐信濃うちしたかへ天正十二年信
雄卿をたすけ給ひ羽柴と軍起りし時日向守家成
懸川の城にとゝまり長門守康通は小牧の陣に
従ひたり長湫の合戦上方の軍すでに利を失ひ
秀吉の多勢楽田を打たつて長湫にむかつて
よす本多平八郎忠勝戦ひつかれたらん御方あら手の