翻刻
【右丁】
多勢と軍せんは覚束なし馳くはゝつて御先をかけんと
て小牧をいつ長門守康通もおなしく続て馬をはせ尾
幡の御陣にはせまいる頓て小牧に引返し給ひけれは戦に
及はす《割書:山中忠兵衛日記に詳也世の人本多か事の|みをしりて石川か事をしる事希也》小田原を攻られし
に康通先陣にそ候ひける此程は家成すてに老ぬれば
康通つねに軍にそ従ひけるされはことし関東へ移給ひし
時家成伊豆国梅縄の城をたひけれは《割書:九千|石》上総の国鳴渡
の城を康通にはたまふてけり《割書:二万石これより先天正八年家の事|嫡子康通にゆつりしかは家成には》
《割書:別に所領をたまふに家成給はりし所領|をは外孫成堯にゆづりしといふ》関か原の戦ひに家成江戸
にとゝまれば康通上方にはせ向ひ松平玄蕃允忠清と
【左丁】
尾張の清洲の城を守る明れは慶長二年【六年ヵ】の二月家成
美濃国大柿の城を賜り《割書:五万|石》城をは大名の課にて修せ
られたり同十二年七月廿七日康通五十四歳にして父
にさきたち子息安芸守わつかに九歳なれは家成又
家の事を行ひ同く十四年十月廿九日七十六歳にて
卒しけり大久保相模守忠隣か二男主殿頭忠総は家
成か外孫なれはとて其家をつかせけり康通か幼息を
ば関東にめし下さる主殿頭忠総十五歳より召出され
十九歳にして小山関ヶ原等の御陣に従ひ慶長八年に
叙爵し外祖家成卒してその跡をつき大柿の城