翻刻
【右丁】
を領すかゝる所に同十九年の春忠総か実父相模守
忠隣罪かうふりしによつて忠総もとちこもつてぞ
候ひけることし冬大坂の軍起りしかは忠総忍ひて
はせ向ひ博労か渕をせめやふりて土佐座に乱れ入
福嶋の堤をも打やぶり舩場の地にそせめ入たる所
〳〵の戦功ならひなかりしによつて御勘当をは
ゆるされけるふたゝひ軍起りしにもからめ手に《割書:京橋|口》
むかひ戦て首三十をきつて献る其後豊後国日田
の地に移され《割書:元和三年|のころ也》寛永十年十二月九日下総佐倉
の城を給ひ《割書:一万石加られて|六万石を領す》同く十一年に従四位下に叙し
【左丁】
此年近江国膳所の城に移り《割書:七万|石》慶安三年十二月廿四日
に卒す嫡子弾正少弼勝康父にさきたちてことし
七月八日に卒しけれは嫡孫惣十郎を嗣とす《割書:五万|石》二男
播磨守総長《割書:一万|石》三男上野阿波守正当《割書:七千|石》四男市正正総
に所領をわかちあたふ惣十郎祖父に継て明れは慶安
四年二月十一日伊勢国亀山の城に移り《割書:五万|石》承応の
元年十二月廿八日叙爵して主殿頭昌勝と云寛文
九年二月廿五日山城国淀の城に移り《割書:一万石を加られ|六万石を領す》
播磨守源総長は主殿頭忠総か二男父か遺領をわかち
賜ふ《割書:一万|石》これよりさき寛永十八年六月廿日御扈従組