翻刻
【右丁】
十一月十三日に致仕し延宝二年十月十三日に卒す嫡子
左京亮義/概(ムネ)父のゆつりをうく義概か嫡子下野守
義英
遠山主殿頭政堯は帯刀忠興か三男《割書:二男市正義英|早世したる也》故ありて
遠山と称す父忠興致仕せし時望申によつて所領の内
をわかち賜ひぬ
兵部少輔政晴は左馬助政長か二男父か所領の地わかち
ゆつられ《割書:和泉と云所二万|石を領する也》幾程なく世を早ふす其男金一郎
幼なくして父につき万治元年閏十二月廿七日右近太夫
なされて間さ政親と申す
【左丁】
内藤
豊前守藤原信成は《割書:初三左衛門|と申也》弥二右衛門清長か二男実は
三河国の住人嶋田の何某か子清長とりて子とせしと
申也《割書:信成か母は岡崎贈大納言家の寵女にて懐妊せしを嶋田久左衛門|景信に給ひ三月をすきて信成をうむこれ天文十四年の事也》
《割書:清長岡崎殿の御子としりてけれはむつきのうちよりとりて養ひ弘治》
《割書:二年信成十三歳のとき徳川殿に見参させけれは御身ちかくめし仕はれ》
《割書:て三左衛門信成とめされしまさしく徳川殿同父異母の御弟也といふ》
《割書:一説に三河の国矢作の住人嶋田平蔵徳川殿と戦てうたる嫡子九郎左衛門》
《割書:二男某と共に城をのかれ出ツ三男は民家にやしなはれゐたりしを家長》
《割書:とりて子とし後に政長をもうけしかは別に所領をたまひしといふ》
《割書:〇按するに前説は清長か子とし後の説は清長か男家長か子とす》
《割書:其家の系図を見るに清長か子たり又家長か徳川殿にうたれし》
《割書:人の子を御身ちかくまいらせしといふは|おほつかなし前説にしたかふへし》信成十三歳より徳川殿
につかへ徳川殿御軍始の時をのれ又はしめて軍せし