翻刻
【右丁】
酒井備後守忠利とともに若君を守護し奉りて
関東にとゝまる清次卒しける時《割書:卒する年月|いまたしらす》其子百助
正勝いとけなし正勝か外祖板倉周防守重宗いとけ
なき身の所領多く給らん事憚あり成人の後こそ給る
へけれとて知行の地を返し奉る《割書:修理亮清成か時すてに三万石|領し若狭守清次是を下し給ひし》
此のち時うつり代あらたまりたれ此事をうつたふる
人もなかりし程に正勝つゐに微禄にて終る《割書:板倉重宗|一生の分別》
《割書:ちかひと世に|いふところ也》其子若狭守重次也《割書:重次寛文二年二月八日御書院|番頭となり同八年十二月五日》
《割書:大番の頭にうつり延宝四年|二月廿一日御側衆になさる》
志摩守藤原の忠重は《割書:はしめ|伊賀守》仁兵衛忠政か二男《割書:実は忠政|か嫡子也》
【左丁】
《割書:忠政はしめ修理亮清成をやしなひ家を|ゆつりしによつて忠重をは二男といひし也》初の名は甚十郎将軍家
に《割書:台徳院殿|の御事》つかへ年廿五歳にして大納言家の御傅に
なされ《割書:大猷院殿御|七歳の御時》寛永十一年十一月志摩国鳥羽の城を
賜ふ《割書:三万五千石を領す|今迄一万五千石也》承応二年四月廿二日六十八歳にて
卒す其子飛騨守忠種父につき延宝元年七月
卒す嫡子志摩守忠重は病者なれはとて二男和泉守
忠勝を嗣として三男虎之助に所領をわかつ《割書:後に三之助|忠由といふ》