翻刻
【右丁】
あやうしと見へけれは御陣に使をまいらせて急御馬をよせ
らるへきにて候と申すと先陣に馳加り敵の勢を打破り
逃ゆく敵七騎をつきおとし足軽共に首をとらせ鑓
つき折て太刀をぬき又一人をきつて御前にまいり守綱
大久保治右衛門と二人仰を蒙りて此日御方の人々の軍せし
剛臆を定しめらる小田原御陣の時当表足軽大将廿人の
随一にゑらはれ関東に移たまひし時武蔵国松山の地にて
所領賜ふ《割書:三万石〇此時足軽三十人まして|五十人属したりといふ》九の戸名古屋等の
御陣にしたかひ奥の上杉追討の時足軽の兵百人を属
られたり《割書:此時当【〇南】変【蛮ヵ】の鎧を給り|足軽五十人をくはへ給ふ》関東の御陣に海道の御供し
【左丁】
其後新恩の地加られ《割書:江州坂田郡を|くわへさせ給ふ》又騎馬の侍三十騎の
所領を宛行わる《割書:遠州榛原|の地にして》慶長十五年守綱嫡子半蔵
重綱と共に尾張殿に属られ尾張三河の国にて
所領の地を加たまひ《割書:三州加茂郡にて五千石尾州にて五千石|武州江州の所領はもとのことしすべて》
《割書:一万四千石足軽を属|せれし事もとの如し》大坂前後の戦ひに守綱重綱共に
尾張殿の先陣し元和六年四月九日守綱七十九歳
にして尾張国に死す
丹後守吉綱は重綱か第四の男はしめ重綱か二男忠七郎
忠綱将軍家に召つかはる重綱か所領の内武蔵国比企
郡の地をもつて忠綱に譲あたふ《割書:三千|石》忠綱元和九年七月