翻刻
鮮王三使をして賀さしめられ此時の來翰報書
ともに慶長十二年の式のことし同九年 大猷
公嗣て立給ふによりて寛永元年朝鮮より三使
來聘す此時の書式もまた元和三年の如くなり
寬永十二年宗對馬守義成《割書:義智の|子なり》其家臣柳川豐
前守《割書:下野守か|子なり》異論の事あり 大猷公自ら大廣
間に出給ひて其爭訟を聞しめしたまふ《割書:此日ハ|諸大名》
《割書:諸士のこら|す登營す》朝鮮國王より贈り奉られし所の書
に慶長十二年元和三年寛永元年三度ともに朝
鮮國王奉書日本國王殿下としるされし事其國
王として外國の將軍と書翰往來の事本意にあ
らさるよし朝鮮王憤り申さるるによりて豐前
守其旨にまかせて彼國書にハ日本國王としる
させ彼國におひて將軍の御事をハ國王と心得
たるよしを申上て其御報をは對州に於て豐前
守私に是を書直し日本國源家光としるされし
國の字の下に王の字を書入て 朝鮮國の使に渡
し遣しける事露顯せり《割書:此時對馬守義成若年に|して諸事柳川か計ひに》
《割書: 出て其式の事とも對馬守ハしらさる事五山|の方長老申上る其事明白によりて對馬守をハ》
《割書: 咎めたまハす豐前守ハ奥州津輕に流刑せらる|方長老も柳川に一味せしによりて同州南部に》
《割書:配せら|れき》是に依て對馬守に命せられて豐前守か
私曲の次第を朝鮮國に告知らせこれより後朝
鮮國王の書にハ日本國大君としるすへし御報
書にハ日本國姓某としるさるへきよしに究り