翻刻
此後本朝にて錢を鑄られし事いまた聞す
皆皆異朝歴代の銭を用ひしと見へたりか
くて大明永樂の天子太宗の代に及て鹿苑
院公方義滿彼國の封爵を受られ其頃異朝
にして永樂新錢を鑄られしかは我國へも
頒賜はり《割書:是永樂錢我國へ|來りし始め也》其後東山公方義
政の世に奢侈を好みて國用甚た促しかは
寛正五年文明七年同十五年三度まて大明
の天子に錢を賜ふへき由を朢請ひ申さる
中にも文明十五年には十萬貫をたにたま
はりなは我國の用足なんと歎き申されき
其頃にはかほとまてに我國の財用はとほ
しかりき
謹按するに一說に文禄天文の頃より我
國にて永樂錢を通用せしといふ事あり
是は永樂一貫文を以て古銭四貫文に當
て永樂錢法にて古銭をも用ひしといふ
事なり
一天正十六年造黄金の大判小判
織田殿は財を生する才略おはせしかは國
富たり秀吉また其才おはせしかは天下を
しりたまひしより天下の財を聚斂して國
用を足されき天正十六年新に大判小判等
を造らる是世に天正十六年判といふもの