翻刻
大師の靈跡破滅せん事此時を以て其期とす應
其大悲願を發しいかにもして此厄難をはらゐ
て佛祖の恩にむくふへしと思ひ此僧か申す旨
に任せられは一身を以て大衆の命にかはり秀
吉の軍をしりそけて我山の再興を致すへしと
いふ大衆大きに力を得て是則曩祖大師の再來
し給ひて我山を中興し給ふ所也いかてかのた
まふ所に背く者あるへきといふ應其やかて
嵯峨天皇曩祖大師の手印等をうけとりて秀吉
の陣に行むかい此山亡さるへき事然るへから
さる事の由を歎き申けれは秀吉忽に心とけて
七條をしるして一山の僧徒を詰難せらる大衆
一同に怠状を捧しかは木食上人一身を捨て大
衆の命に代りて歎き申す所を感し上人の爲に
此山を建置よしの壁書を下され上人を以て一
山の僧綂とせられ學侶行人時宗客僧悉く皆上
人に附屬せらるる由を以て下知せらる同十八
年上人一寺を建立す關白の執奏によりて宸翰
を染られ《割書:後陽成院|の御時也》興山寺の額を賜て勅願寺と
なされ勅して千石の地を以て竒附せらる《割書:是朝|家よ》
《割書:り御竒附の申也といふ亦秀吉つねに人に【右に二字追記】むかひて|高野の木食と思へからす木食の高野也と宣ひ》
《割書:又上人の寺を興山と附られし事も上人此山を|再興せし功德を顯さるる所なりと見へたり》
同二十年秀吉の母公上人をして一寺を建立せ
しめ三千石の地を竒附せらる今の靑巖寺是也