翻刻
る《割書:慶長十三年の|事也といふ》同十七年に入寂す六十六歳《割書:神|祖》
《割書:此の僧を三能の僧と仰せられしは博學武勇醫術|之三つ也といふ若き時弓矢打物とりては山中》
《割書:に■【雙の異体字】ひなく織田信長と戰ひし時に其軍將松山|と組て首をとる老衰の後身煩はしくして一溪》
《割書:道三に醫術を學ひて其道を得たりき其老たる|をあはれませたまひて乘物に乘なから御玄關》
《割書:に至る事を免され御前にても蒲團に坐せしめ|られしによりて其頃に文珠院蒲團と申せしは》
《割書:是な|り》
文珠院を江戸に移す事
興山第三世應昌は勢譽附法の第子として其師
の讓りを得て興山寺の住持職となされ常に駿
府に伺公し五年每に登山して山の事を沙汰す
慶長十九年の冬大坂御陳に供奉す十二月五日
應昌をめされて南都内山吉野大峰熊野北山等
の山卧土民等大坂に組せし者とも退治すへき
由の仰せを蒙り爰かしこに馳向ひて一揆等を
降伏し明年四月御暇を賜ふて登山し山の僧徒
に物具させ大坂の御陳に馳參る 神祖かくれ
させ給ひし後江戶淺草にして寺地を賜はり駿
府にありし文珠院の坊舎を引移し《割書:其後北丸の|御座敷を下》
《割書:され文殊院修造|の事有しと也》常に御前に伺候し五年に一た
ひ登山し山の事を沙汰する事もとのことし
東照宮高野山に御鎭座の事
神祖御在世の時文珠院に命せられて高野山は
萬代不易の靈場也我千秋の後には彼山に跡を
垂はやと仰ありし御事を以て 神宮造立の事